論説:パンデミック時代のドイツの文化政策(2)【3/5ページ】

文化的生存配慮

 現代ドイツの文化政策論の中心には「文化的生存配慮」(kulturelle Daseinsvorsorge)(*13)というキーワードがある。もともとは、市場原理主義のグローバル化の中で、民営化によって淘汰されてはならない公共文化政策の本質をめぐる法哲学的議論だ。ドイツ憲法で保障された「人格の自由な発展」を可能にする条件を、芸術の自律性および現代市民社会の民主主義的基盤の形成という観点から基礎付けたのである。この概念を最初に提起したのは、2004年9月29日付のドイツ文化評議会の声明であった(*14)。

 公共文化政策の基本枠組みは、1)文化施設の設置と維持、2)芸術・文化の振興と文化的人格形成の促進、3)文化事業の発案と資金調達、4)芸術家と文化を生業とする者、市民活動、文化領域で働くフリーランサー、文化産業のための条件整備にある。今回のコロナ危機のように、(国民だけではなく)ドイツに居住する者の「文化権」が損なわれた場合、「文化的生存配慮」を法的根拠として、国家や自治体には公的支援を行う責務が生じる。グリュッタース文化大臣の発言の根底にも「文化的生存配慮」の思想と責務が反映している。

フェイクのメカニズム

 日本で新型コロナ禍による文化施設の閉館、公演やイベントの中止が始まって3ヶ月。5月後半に至ってもなお国レベルでの具体的な救済策は打たれず、芸術文化関係者の不安と不満が限界に達している。その間、とりわけドイツの文化大臣の力強い発言に注目が集まると同時に、その支援額の巨大さがなぜかひとり歩きしてきた。国会でも、「ドイツでは芸術家に6兆円もの支援がなされている」、あるいは「ドイツでは無制限の芸術支援が行われている」といった議員の発言が繰り返されている。しかし、これらの情報は事実ではない。

 また奇妙なことに、「芸術家は社会の生命維持装置だ」というフレーズが文化関係者やメディアのみならず、国会議員の発言にも引用されてきた。先にグリュッタース文化大臣の声明を紹介したが、それは「文化は社会にとって必要不可欠な存在であるから、芸術家の生活を維持できるように支援しなければならい」という論旨であった。この発言を短絡して、あたかもECMOと同じように、芸術家の存在そのものが社会の生命維持装置であるかのように語られてきたのである。

 もちろんそれを、日本政府の無理解・無関心・無責任を挑発する「生産的誤解」と評価することも可能であろう。しかし長い目で見た場合、人文学的知性の裏付けを欠いた「風説」が招く(社会的・政治的)反作用を筆者は危惧する。こうした誤解の背景にあるものは、自動翻訳による誤訳や英訳からの重訳による不正確な表現、また的確な理解の背景となる専門的知識と総合的判断力の欠如である。フェイクを意図せずともフェイクニュースが発生し、まことしやかに流布してゆく情報化社会の恐ろしさを実感する。英語以外の多言語の学習機会と人文学的教養を軽視してきた「反知性主義」が招いた弊害と言えるだろう。

ファクトに即して

 まず、500億ユーロ(6兆円)という支援額だが、これは次のような意味である。ドイツ連邦政府経済・エネルギー省は3月23日、「零細企業と自営業者のためのコロナ-緊急支援」のパッケージを発表した。その財政出動は総額で500億ユーロ。この中で補助金として給付される対象は、従業員数10名までの全ての経済分野の零細企業、自営業者、そしてフリーランスに属するものとされた。 

 従業員5名までは3ヶ月分が9000ユーロまで一括して給付、従業員10名までは1万5000ユーロが一括給付される。つまり、文化・創造経済の分野でも、上記の条件で補助金が支給されることになる。だから、文化・創造経済の分野に特化した支援策ではない。 

 さて、ドイツにおける文化・創造経済の年間の価値創出総額は12兆円に上る。下記のグラフ(出典:「ドイツニュースダイジェスト」5月22日号)は、経済・エネルギー省の白書をもとに作成したもので、自動車産業の166.7、機械産業107.1に次いで文化・創造産業(経済)が100.5(1005億ユーロ)となっており、3番目の経済規模である。

 文化・創造経済分野の従事者は120万人、企業数は25万6000なので、1企業(事業者)あたり4〜5名。つまり、ほとんどが零細企業、自営業者もしくはフリーランスに該当する。その大半が、先の支援策の対象者になるものと予想される。 

 ただし、これは連邦政府による支援策である。ドイツでは文化振興は地域主権の立場から、州と自治体が主体で行い、連邦文化メディア委任官庁の予算は全体の13.5パーセントにすぎない。したがって、各州や市町村も独自に芸術家や文化団体への支援策を打ち出している。例えばバイエルン州では月額1000ユーロ、バーデン=ヴュルテンベルク州では月額1150ユーロを、個人芸術家の生活費に特化して給付することを決めた。また、ザクセン州ではフリーランスの芸術家に「奨学金」として2ヶ月分で2000ユーロを支給している。

 これら連邦政府、州政府、基礎自治体を合算して初めて、ドイツ全体の文化・創造経済分野への支援総額が明らかとなる。それらのデータを集積し、迅速に公表しているのはドイツ文化評議会である(*15)。

編集部

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