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2つの原爆資料館、その「展示」が伝えるもの。小田原のどか評「広島平和記念資料館」【2/2ページ】

「長崎原爆資料館の加害展示論争」とは何か

 1992年から長崎市は被ばく50周年記念事業として長崎国際文化会館の建て替えに着手した。同館から名称が改められ96年4月に開館した長崎原爆資料館は、開館前から混乱の渦中にあった。鎌田定夫による論考をもとにたどっていこう(*9)。

 92年7月に発足した長崎国際文化会館建替検討委員会では、当時の本島等市長の強い意向を受けて「日本の侵略の歴史を踏まえた展示とする」ことが確認されていた。ここで展示製作を受託したのも丹青社である。監修会議は8回開催されたが、秘密裏に行われ、具体的な展示内容は開館直前まで一切非公開とされた。

 なぜこのような密室での展示決定が行われたのか。その理由を本島は、慰安婦問題や旧日本軍七三一部隊、そして南京事件を扱う展示について「議会に詳細に話したりすれば、まとまるはずがない」からだと述べている(*10)。

 本島は88年に天皇の戦争責任について明言したことで、天皇主義者や右翼団体の脅迫を受け続けた人物だ。90年には右翼団体幹部に銃撃され、全治1ヶ月の重傷を負っている。長崎原爆資料館の展示リニューアルにおける「加害展示」とは、「アジア諸国の人々と共有できる歴史観」を長崎の公的な資料館から発信することを強く望んだ、本島の強固な政治的信念から企画・実現されたものだった。

長崎原爆資料館外観 提供=長崎原爆資料館

 95年に本島からそのような路線を引き継いだ伊藤一長市長も、同様の姿勢で展示実現に向かっていく。96年1月に『朝日新聞』が加害展示の実施を公に報じたが、これ以前から保守派議員や右翼団体による加害展示の取りやめを求める圧力は高まっており、開館直前に「加害写真」の差し替えが決定した。これに対し中国の『人民日報』は「資料館は圧力に屈した」と非難の記事を出す。

 いっぽうで長崎内の華僑からも差し替えに関して不快だという反発が起こる。これを受けて長崎市は再び加害写真を展示することを発表した。このような紆余曲折について地元紙は、「中国側に“配慮” 場当たり的対応 信頼に傷」(西日本新聞)、「理念なき秘密主義の当然の帰結」(長崎新聞)と痛烈な批判を報じた。

 こうした二転三転のなか、96年4月、長崎原爆資料館はオープンした。いったんは落ち着いたかのように見えた加害展示への反発は、4月21日付の『産経新聞』によって急転する。同紙がスクープした、資料館の映像資料に収められた南京事件の写真が中国製作の映画と同一のものだという報道によって、事態は新たな局面を迎える。

 この映画とは、小林正樹監督『東京裁判』(1983)にも使われている、フランク・キャプラ監督『ザ・バトル・オブ・チャイナ』(1944)である。原爆資料館が史実だとして提示した図像は、この映画から引用されたものだった。問題は、該当のシーンが、セットが組まれて撮影された「再現映像」であり、当時の様子を記録した映像ではなかったということにある。

 公的な記憶を扱う資料館において、歴史記述の根拠をつくりものの映画から引いてしまったことは、あらゆる意味で論外である。本展示は丹青社が製作したことを先ほど述べたが、しかしここでの過失を同社のみに帰すことはできない。なぜなら丹青社は、複写元の映像資料を米国国立公文書館から公的資料扱いで入手していたからだ(*11)。となれば問題の根幹は、有識者が数名しかいない密室で展示内容が決定されたことにある。

 いずれにせよ、こうして加害展示は全国的に知られることになった。その結果、中部以西の右翼団体が長崎に集結し、約80台の街宣車がひしめいて「侵略・加害展示を撤去せよ」と怒号を発し、800人の警官隊が出動する事態に発展する。長崎市は即時展示を取りやめるといったかたちでこれらの圧力に屈することはなく、運営協議会での審議を待ち、それまでは展示を続ける意向を示した。

 96年7月までに3回にわたって開かれた協議会では、議論の紛糾が相次ぎながらも、問題の映像の図像が反日宣伝のための映画からの引用であったことが認められ、176のシーンが削除されて101シーンが追加された。適切な資料への差し替えと説明文の修正は40ヶ所に及んだ。加害展示そのものの撤去要請が繰り返されるなか、協議会に参加した被ばく者団体や教育関係、学識経験者らがこれに同調することはなかった。

 こうして96年8月を迎え、リニューアルした原爆資料館には多くの来場者が訪れた。いっぽうで、繁華街では展示のさらなる是正を求め、日の丸会(日本会議長崎)を中心に組織された「原爆展示をただす市民の会」による署名運動が行われ、500人が参加した決起集会も催された。収束が難しいように思えた長崎原爆資料館の加害展示論争だが、最終的にはある種の「奇跡的な着地」を見せる。どういうことか。

 同年11月に開かれた第4回運営協議会では、「原爆展示をただす市民の会」が提出した要望書が紹介されたが、そこにはこれまで数回にわたって要求された加害展示の撤去はなく、「より良い原爆展示の実現を強く求める」として、広島・長崎への原爆投下を正当化する理論を克服する展示の充実などを盛り込んだ具体的な改善提案が挙げられた。ここでの要求は資料館の充実につながるものであるとして、協議会からは異議が出ることはなかった。

 鎌田は「この1年間、私たちは『加害』展示という問題でこそ意見が対立したが、『核廃絶をめざす原爆資料館を』という点では基本的に一致した」と、もしこの議論があらかじめ開かれていれば、「たとえ戦争観や歴史的認識の点で相互の溝がまだ埋まらないとしても、ともに核兵器廃絶をねがう被ばく地長崎の市民として、一致点で共同できる可能性」があったと述べている(*12)。

 前述した本島等の境遇に鑑みれば、加害展示についての議論を公に行うことで生死に関わる危険があったことは想像に難くない。しかし、鎌田も指摘するように、やはり公的な資料館であるからには、専門家や市民を巻き込んで議論を開いていくべきだったのだ。そこでこそ、対立点と一致点のすりあわせが生産的に行えたはずだ。

 古色蒼然たる皇国史観や大東亜戦争肯定論者であっても、日米安保条約や外国軍基地撤去を要求するという面では対話や共同調査の未来があるのではないかという鎌田の主張は、左右の対立がいっそう深まった現在においては隔世の感がある。しかしそれでも、忘れてはならない内容を多く含んでいる。

 とはいえ、長崎原爆資料館の加害展示論争が起きたのは96年だ。現在と決定的に異なるのは、インターネットの普及と、ソーシャルネットワーキングサービスの台頭である。昨年、ヤノベケンジ《サン・チャイルド》が撤去に至った背景には、人々の激しい感情を増幅させる装置としてのTwitterの影響力があったことは疑いようがない。津田大介が名付けたところの「情の時代」を私たちは生きている。今後もし同様の騒動が起きたとき、96年の長崎と同じような着地に至ることはとても難しいと思われる。

 そして残念なことに、長崎では加害展示論争の反省が生かされず、次なる問題が起こっている。伊藤市長在任中に設置された、長崎にとって北村西望《平和祈念像》に続くふたつ目の大型彫刻《母子像》だ。この彫刻は96年に被ばく50周年記念事業として公の審議を経ずトップダウンで設置が決まり、その結果、撤去を求める大きな反対運動が生じた。これも長崎原爆資料館の加害論争と同様、密室主義によって引き起されている(*13)。

 ここから痛感するのは、展示やモニュメントの造形に関する決定をトップダウンや秘密主義に陥らせないことの重要性である。そしてもうひとつ、長崎の爆心地には原爆被害の議論を開いていくための大きな手がかりがある。それは浦上刑務所の中国人・朝鮮人犠牲者だと鎌田はいう。

彼らは日本軍国主義と米原爆帝国主義の二重の被害者で、いまなお何らの補償もされず、いまだに原爆使用の正当化、核抑止神話がまかり通り、日本政府もこれに追従し続けている。浦上刑務所には、かつて日本人の政治犯・反戦運動家たちも投獄されていた。[…]第二次大戦末期、長崎は侵略戦争遂行のための兵站基地、軍需産業都市であり、この街全体が核攻撃を受け、核被爆都市となった。こうして、長崎の被爆構造と戦争構造は重なり合う。加害と被害は、いわば「複合化」あるいは「重層化」され、単純な図式化は許されない。構造的暴力の支配下では、敵味方に関係なく、被差別者・被害者が加害者となることを強いられ、もう一度被害者にもなりうるのである。(*14)

 ここで言及されている浦上刑務所は、現在の平和公園に存在した。原子爆弾投下時、爆心地に最も近い公共施設であった長崎刑務所浦上刑務支所の建物と周囲を取り囲んでいた塀は一瞬にして崩壊し、職員18人、官舎住居者35人、受刑者および被告人81人──そのなかには中国人が32人、朝鮮人が13人いた──の134人は全員死亡した。

 92年に平和公園の地下駐車場建設工事が行われた際に、この浦上刑務所の基礎部分や死刑場の遺構が発見された。保存を求める運動が起きるが、刑務所の遺構は一部分のみを残して埋め戻されてしまう。そして現在、遺構を内包する平和公園の表層には、平和という名の無数の具象彫刻が、まるで刑務所の記憶に蓋をするように据えられている。

 広島市平和記念資料館前館長の志賀賢治は「被爆者がいなくなると、主役は資料です」(*15)と述べ、実物資料の重要性とともに資料館が被ばくと無縁の人々によって運営される未来を見据えることの必要を説いた。いっぽうで、長崎の爆心地に被ばく者なき後に資料とともに残るのは、大量の彫刻だ。彫刻に関わる者として、私はそれが意味することを、とても重く受け止めている。

 「長崎の証言の会」設立者でもあり、長崎の反核平和運動の理論的支柱となった鎌田定夫ももういない。けれども、彼が書いたものを私たちは何度でも読むことができる。鎌田が残した加害展示論争の記録をいまこそひもとき、この問題が中央や美術関係者のあいだでほとんど話題にならなかった理由について、その語りにくさとはなんだったのかを考えるべき時がきている。

 なぜなら、私たちは準備をする必要があるからだ。それはこの国にはいまだ存在しない国立の戦争博物館がつくられる未来のための準備である。この博物館における「公的記憶」とは、そこでの「展示」がどのようなものか、そしてどのような「モニュメント・彫刻」が置かれるかということと直接的に関わるからこそ、過去の二の舞いはあってはならない。

 本稿で見てきた、広島市平和記念資料館のリニューアル展示における共感の構造や、長崎原爆資料館の「加害展示」における「対立」と「一致」からは、この未来のための様々な教訓が得られるはずだ。過去の過ちに蓋をするのではなく、そこから教訓を取り出し、繰り返さないこと。それはきっと、難しいことではない。

 

*1──『朝日新聞』2019年3月27日付。
*2──同上。
*3──鍋島唯衣「原爆資料館の人形展示を考える」(『忘却の記憶 広島』月曜社、2018年)。以下、原爆再現人形の記述は本稿を根拠とする。
*4──「広島平和記念資料館展示検討会議 会議要旨 全25回
*5──広島の記憶がどのようなナラティブに拘束されているかについては以下を参照。米山リサ『広島 記憶のポリティクス』岩波書店、2005年。
*6──『朝日新聞』2019年5月29日付。
*7──栗原貞子「広島平和記念資料館」(『世界の平和博物館』西田勝・平和研究室編、日本図書センター、1995年)。
*8──「1995年 長崎平和宣言」。「スミソニアン原爆展論争」を受けて発された。
*9──「原爆資料館で何を学ぶか 長崎原爆資料館の加害展示論争から」(『歴史地理教育』、歴史教育者協議会編、1997年)、「長崎原爆資料館の加害展示論争 侵略加害と原爆被害をめぐって」(『歴史地理教育』、歴史教育者協議会編、1996年)、「長崎原爆資料館の加害展示問題」(『戦争責任研究』14号、日本の戦争責任資料センター、1996年)。いずれも著者は鎌田定夫。
*10──『週刊新潮』1996年3月号。
*11──裁判所判例より。
*12──鎌田「原爆資料館で何を学ぶか」。
*13──日本におけるトップダウン/秘密主義による巨大彫刻設置と拒絶は、長崎から福島へと直接的に接続される。以下を参照。小田原のどか「拒絶から公共彫刻への問いをひらく:ヤノベケンジ《サン・チャイルド》撤去をめぐって」
*14──鎌田定夫「原爆資料館で何を学ぶか」。
*15──『朝日新聞』2019年3月27日付。

編集部

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