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第16回芸術評論募集
【佳作】沖啓介「Averages 平均たるもの エドワード・ルシェから始める」【2/3ページ】

インフォメーション・マン

 名高い美術館学芸員のコーネリア・バトラーは、2004年のホイットニー美術館で始まってアメリカ国内を巡回したエドワード・ルシェの「Cotton Puffs, Q-tips, Smoke and Mirrors: The Drawings of Ed Ruscha」展のカタログに、「インフォメーション・マン」という題名のエッセイを寄せている。実は、これはルシェがロサンゼルス現代芸術研究所(*16)のジャーナルで書いた短いテキストの題名に由来している(*17)。

 ある時、男が路上でぼくに近づいてきて、「わたしはインフォメーション・マンです。あなたは13分間、〈あなたの〉という言葉を使っていません。あなたは〈賞賛〉という言葉を18日と3時間と9分間、使っていません。あなたは〈石油〉という言葉を話しのなかで、ほぼ4ヶ月半使用してませんが、あなたは金曜の晩の午後9時35分に〈最後〉という言葉を書き、30秒ほど前に〈ハロー〉という言葉を使いました。」ともしも言ったら、すごいのだけど。  インフォメーション・マンは、物事の配置や場所についての詳細もまた持っている。彼はおそらく公開されているぼくのすべての本 (17冊が、何もカバーされずに、上向きに置かれている)についてぼくに語ることができる。2026冊が図書館で垂直に置かれ、 2715冊が積み重ねられている。1冊の本でもっとも重いのは68と4分の3ポンドあり、ドイツのケルンの本屋にある。58冊が失われ、14冊が浸水か火事によって完全に崩壊し、216冊は、ひどく擦り切れていると考えられる。とても大きな319冊の本は、たぶんほとんどが書棚にあって、その積み重ねは40度から50度の位置で、奇妙に傾いている。18冊の本は故意に捨てられたか、意図的に破壊された。驚くべきことに53冊の本は、一度も開かれておらず、そのほとんどが新たに購入され、そして一時的に取り置きされたものだ。エドワード・ルシェのおよそ5000冊の購入された本のうち、実際に直に機能的に使われたのはわずか32冊である:それらのうち13冊は紙か他のものの重しとして使われるか、7冊は蝿や蚊のような小さな昆虫を殺すハエ叩きとして使われ、2冊は身体の護身に使われている。10冊は重たいドアを開けるのに使われた(たぶん10冊で一包みになっていてドアを開けるのに使われたのだろう)。2冊は壁の絵を押してレベルを正すのに使われ、クルマの計量棒のオイルを調べるのに布巾として使われ、3冊は枕の下にあった。  221人が本のページを嗅ぎ、それらはおそらくほとんどがオリジナルで購入されたものだろう。  そのうち3冊は2年以上前の購入以来、ずっと移動し続けており、それらはすべてワシントン州シアトル近郊の船の上にある。  この本を議論するのに使われた罵り言葉は以下の通り:312人が罵り言葉を本を批評するのに使い、435人が罵り言葉を本を賞賛するのに使っている(後者の数は、もはや物事を非難するのに罵り言葉を使用しないという事実からだろう)。  こういうことがわかって、ぼくはうれしい。

 バトラーは、この文の最初の段落部分に出てくる言葉を示しながら、「〈賞賛〉〈石油〉〈ハロー〉の頭韻を踏んだ並置は、ルシェの地元の土地言葉(つまり、やり取りのモード、鮮やかに想起させる物質、時にスラングであったりする歩行者たちの話し方)をまとめたものである。ルシェが小耳に挟んだ会話から生じた小片のぼんやりと愛想の良いあり方は、あきらかに中西部のものであり、彼の語形変化しないファウンド・テクストの親近感は、幼年期のオクラホマから彼といっしょに残ったものだ」と評している(*15)。

 たしかにこの「インフォメーション・マン」は、どこか少年ぽい想像世界を見せているかもしれない。 彼は自分の表現として、書籍を自主出版したが、そういう本の行方についても、このテキストにあるようにイメージを膨らましていたのだろうか。

 本というのは、巨匠たちが書いた歴史的書物以外は、従来はせいぜい発行年をたどるぐらいでしか、 過去の本と接することは困難だった。

 エドワード・ルシェについて書かれた書籍情報を探ると、次のような統計結果が浮上する。

 グラフ1は、ルシェをGoogle Ngram Viewer(以下GNV)で検索して調べた結果である。GNVは、19世紀からの書籍をデジタルデータとして蓄積している巨大なデータベースであるGoogle Booksの書籍のコーパスから「Nグラム法」を用いて検索フレーズがどのように発生したかを示すものである(*18)。

グラフ1

 GNVにある19世紀からの膨大な書籍データ量のなかで、エドワード・ルシェが引用されたものを全書籍のなかでの比率をパーセントで表したのが縦軸の数値である。

 ルシェの名前の「エドワード」は、「エド」という短縮した愛称で呼ばれることがあり、その2つの姓名で検索すると、このグラフのようになる。ほとんどが同じ線グラフを示している(文中で両方が使われているからだ)。

 2000年を境に「エド・ルシェ(Ed Ruscha)」という呼称が、展覧会でも定着し、紹介文でもそのように表記するのが一般化している。このように愛称が定着しているのは、アーティストとしての認知とポピュラリティが拡大、定着していると考えられるだろう。

 ルシェは、学生時代にジャスパー・ジョーンズに影響されたことを認めているが、彼自身は単純にポップやコンセプチュアルな文脈で見られるのを拒んでいる。

 ルシェに関して収集されているデータの最初の出版物データは、『Joe Goode; Edward Ruscha: An exhibition presented by the Fine Arts Patrons of Newport Harbor at the Balboa Pavilion Gallery, March 27 to April 21, 1968』というもので、展覧会に関する出版物である(*19)。

 それはバルボア・パビリオン・ギャラリーで1969年3月末から4月にかけて開催されたもので、美術コレクターたちによって展示された展覧会のようだ。バルボア・パビリオンというのは、ロサンゼルス近郊のニューポート・ビーチで1906年に建造された海岸沿いの商業施設である。この街の発展の象徴的な建物であり、現在はカリフォルニア州でも当時の様式を残す唯一の歴史的建造物になっている。

  2人のアーティストの名前が並列されているが、先に出てくるジョー・グード Joe Goodeは、ポップ・アートの画家であり、1937年生まれで、ルシェと同い年である。ルシェは、ネブラスカ州オマハで生まれているが、幼少期の1941年からロサンゼルス移住までの15年間をオクラホマ州オクラホマシティで育っている(先述した少年期の新聞配達はここでの話だ)。そしてグードは、そのオクラホマシティで生まれ育っている。

 ルシェは、1956年に、グードは、1959年にロサンゼルスに移り住み、2人は共にシュイナード美術大学(現在のカリフォルニア芸術大学[CalArts])に学んでいる。卒業後は、両者ともこの地に根をおろして画業についている。

 このように彼らは、同郷であり、またともに60年代にポップ・アートの影響を受けてアーティストとしてキャリアを開始している(後述するがルシェには、他にもオクラホマ出身のミュージシャンやアーティスト仲間がいて、ルシェを地域的に語るとき、出身地オクラホマと居住地ロサンゼルスの文化的背景は欠かせない)。

 ルシェについての記録が発生した時点と彼を取り巻く状況も、このように見えてくる。

 統計は、他の多くの要素と比較することで、それぞれの統計結果の意味がわかるようになる。もちろんデータは、入力されているデータの質によっても左右される。入力データには偏りなどもあるだろう。しかし、大きな動向を把握するのには適したものであり、また情報そのものも、物理現象や自然現象のように発生や変化や減衰のような過程を持っている。

 グラフ2は、ポップアーティストのアンディ・ウォーホルやジャスパー・ジョーンズ、一般的に20世紀の巨匠と考えられるパブロ・ ピカソ、現代アートの創始者としてのマルセル・デュシャン、また19世紀末に大ブレイクした美術運動としての印象派、15〜16世紀の天才レオナルド・ダ・ヴィンチ、そしてエド・ルシェを、同時に検索してみたものである。グラフ1ではわからない200年間の近現代のアートのあり方のなかでのエド・ルシェの位置が見えている。また現存作家としてこれからまだ語られていく気配のようなものも感じ取れるだろう。

グラフ2

 アートに関するデータにも、インフォメーション・マンのように機能する存在があってあらゆる事柄を知りうることが可能になっている。

 もしもエド・ルシェの作品をなるべくたくさん見たいとする。通常は検索エンジンで調べるとルシェの生い立ちやら、代表的な作品の解説やら、展覧会情報などの記事や批評や研究報告などが出てくる。

 しかし、ルシェらしさの一面を表す小品、版画、写真、小冊子のようなものから見たいなら、むしろルシェ作品の値段を調べるといいだろう。そうすると美術館のカタログや美術雑誌では取り上げきれない数の作品がネットの上に並んでいて、それらの持ち主は個人のコレクターであったり、ブローカーであったり、アートディーラーであったりしている。

 アートは、経済的に見ると、全体としては大きなマーケットを形成しているが、過去と現在を画するのは無数のコレクターが参加するようになっていることだろう。歴史的に主要な芸術作品はかつては富豪や王侯貴族が持っていて閉じられていたが、いまはソーシャルになったと言ってもいいだろう。そしてルシェのように複数制作作品がたくさんマーケットにあって流通しているのは、様々な表現手段を使ったマルチプルな作品を手がけることが次第に一般化していることも示している。そういう意味では現在ではアート・マーケットとコミック・マーケットに共通するようなものも感じられる。

 そしてインフォメーション・マンが把握しているような「物事の配置や場所についての詳細」は、探せば誰もが知ることができるようになっている。
 

騒音と草原の二重性

「近くのバルコニーからひびく音楽は、ときどき起こる暴力行為の騒音にかき消された」 ――J・G・バラード

 バラードが1975年に書いたディストピア小説『ハイライズ」(*20)。

 その舞台である近未来ロンドン近郊の開発地区にある高層マンションには、医者、学者、報道関係者、評論家、有名女優など高度な専門職を持つ住民が住んでいる。高層ビルは、学校やスーパーや飲食店や娯楽施設などを内部に持った社会でもある。住民たちはパーティーを催しながら優雅に暮らしていたのだが、電気系統などの施設の故障などを発端に次第に住民間に亀裂が入るようになり、下層、中層、上層に住むそれぞれが階級的な様相を持って激烈な敵対と抗争が起こるようになる。

 ルシェは1984年の作品《The Music from the Balconies》で、親交があったJ・G・バラードの小説『ハイライズ』(1975)の第9章から先述の言葉を引用している(*21)。

 ルシェは、この小説のテーマや考えを描いたと英国のウルヴァーハンプトン・ギャラリーで2011年10月に開催されたアーティスト・トークで語っている(*22)。

 バラードが1975年に描く20世紀後半のある時期の「近未来」ストーリーでは、言うなれば〈高度プロフェッショナル〉たちが主人公なのだが、それは一方ではこのように描写されている。

未来のプロレタリアートは、こういう高級マンションのはるか高みに、エレガントな調度と知的感受性をいだいて閉じ込められ、脱出の可能性はまったくないのだ(*23)

 この高層ビルのエレベータは、「マンション住人が好きな巨大なポップアート絵画や抽象表現主義絵画などの運搬用に設計(*24)」されているという。

 バラードによるディストピアは、ルシェの表現とは距離があるようにも思えるが、ルシェもディストピア的なダークさを絵画に忍び込ませている。バラードもルシェも、幼児体験を表現に滲ませている。しかしバラードが、少年時代に英国の領地だった上海で育ち、第2次大戦が勃発してからは日本軍の捕虜収容所で3年間過ごしたのに対して、ルシェはオクラホマで過ごし幼少期からの友人たちと都会を夢見ていたような違いはある。バラードが少年期を小説「太陽の帝国」に結晶化させたように、ルシェは田舎と都会の構造を意識的に絵画に取り込んだとも言えるだろう。

 このバラードの物語の言葉にインスパイアされて引用しながらも、ルシェは絵の背景にはオクラホマの草原のような光景を選んでいるのだ。

 ルシェは、2010年にミュージシャンのネルズ・クライン、詩人のデビット・ブレスキンたちと音楽と詩と絵画による共作アルバム『Dirty Baby』を発表している(*25)。

 ミュージシャンのネルズ・クラインは、ロサンゼルス出身で、オルタナティブ、ポストロックなどの分野で活躍するギタリストである。ノイズも取り入れた演奏は、バラードが描くディストピアの雰囲気にもよく似合う。

 だがルシェは、音楽でも田舎と都会の二重性を持っている。改造フォードに乗ってオクラホマからロサンゼルスまで伝説のルート66号線をドライブして「上京」した時に一緒に乗っていたのは、ギタリストのメーソン・ウィリアムズだった。他にも先述のアーティストのジョー・グードや写真家のジェリー・マクミランなど、オクラホマ出身の子供時代からの友人たちとつるんでいた。ルシェ、ウィリアムズ、マクミランの3人は「Okies Go West(オクラホマ人、西へ向かう)」というカントリー・ミュージックのコンサートを2007年に開いている。ルシェが故郷の家族を頻繁に訪れる時に使ったルート66沿いにあったガソリン・スタンドの写真は、1963年に『TwentySix Gasolline Stations』という代表的な本の作品になった。

  田舎臭さと都市の洗練さを併せ持つというのが、ルシェの卓越したスタイルなのだ。ルシェ作品を語るときに、「土地言葉」がつねに引き合いに出されるが、バラード文学との交感にも見られるようなフィクティブな言語文化にも通じているのだ。

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