2017年9月より、米ネット通販大手アマゾンは、シアトルに次ぐ第2本社の候補地選定を進めてきた。交通の便がいいこと、100万都市に近いこと、74万平方メートルのオフィス用地が確保できることなどを条件としたアマゾンに対し、同社がもたらす雇用創出や巨額の経済効果の恩恵を受けようと、238都市が税制優遇などを提示し、熱心な誘致活動を行ってきた。18年11月、1年以上にわたり検討視察を重ねた結果、第2本社はニューヨーク市のロングアイランドシティと、ワシントンD.C.近郊のバージニア州北部アーリントンに分割配置されることが決まった。
アマゾンの第二本社に選ばれたロングアイランドシティとは
新拠点のひとつとして選ばれたロングアイランドシティ(以下、LIC)は、ニューヨーク市のクイーンズ区、イーストリバーを隔てて、マンハッタンのミッドタウンの東側に位置し、マンハッタンからは車で数分、地下鉄で1駅という便利な場所にある。工業を主体に発展してきた地域で、工業用建物、自動車修理場、工場などのほかに、タクシー営業所、倉庫、撮影所など様々な業種が集まっているかたわら、ストリップクラブや西半球最大の低所得者向け団地「クイーンズブリッジ」などもある。
いっぽうで、LICはアートと結びつきの強いエリアでもある。ニューヨーク近代美術館(MoMA)の分館である「PS1」や、良質のプログラムで定評を得る「スカルプチャー・センター」といったアート施設を始め、有名アーティストの作品を手がける鋳造所、美術館向けの額装業者、マンハッタンのギャラリーやコレクターが利用する巨大アートストレージなども存在する。
そして特筆すべきは、エリア内で活動するアーティストの多さだ。LICには、アーティストにスタジオを提供する「アートスタジオビル」が点在し、エリア全体で1000人近くのアーティストが制作活動を行っていると言われている。そのなかには有名アーティストも含まれている。
ニューヨーク州は、アマゾンの新拠点設立に際し、約15億ドル(1700億円)という巨額のインセンティブを供与することになっている。対しアマゾンは25億ドル(2800億円)を新拠点設立のためにLICに投じ、2万5000人の正社員を配置、社員平均年収は15万ドル程度(1700万円)に設定すると発表。同社は、周辺コミュニティへの還元として、一帯のインフラの整備を約束している。また新社屋の一部を、地元のアーティストやビジネスオーナー向けインキュベーター施設として開放し、地域との融合を図る計画を立てている。良いことづくめに聞こえるが、その青写真は本当に実現するのであろうか。
ジェントリフィケーションの影響を受けるアーティストたち
近年、LICでは地域再開発が急ピッチで進められている。リーマン・ショック以降、住宅市場が冷え込むと、ニューヨークの開発業者によって「賃貸用高級コンドミニアム」の市場開拓が始まり、好立地であるLICは開発地のひとつとなっていった。2010年ごろから「ハイライズ(高層コンドミニアム)」の建築ラッシュが始まり、17年までの間に、1万2500戸がエリア内に加わったいま、現在LICはアメリカ国内において、もっとも急速に開発が進む地域となっている。最近では、オフィス用ビルも増え、LICに移転してくる企業も出始めている。しかし、この開発ラッシュにより、一帯では大規模な「ジェントリフィケーション」が起きており家賃や物価が高騰、アマゾンの進出でさらに事態が悪化することが懸念されている。
10年前からLICのスタジオで制作活動を行っているアーティストの武居京子は、「2015年ごろにスタジオの家賃が1.4倍ほど引き上げられた」と話す。再開発に伴う便乗値上げだったと見られるが、スタジオを気に入っているアーティストの多くは、同様に家賃の吊り上げに応じてきたという。「アマゾンの進出によって、さらに家賃が上げられてしまうことを心配している」と武居さんは言う。
06年からLICに住みながらスタジオを構えるアーティストのクリスティーナ・ナザレブスカイアも、「3年ほど前にスタジオの家賃が2倍に引き上げられた」と語る。オーナーは、税金の高騰を口実にしていたが、やはり周辺地価の上昇に乗じたものだった。アーティスト仲間には、すでにスタジオを引き払うことを余儀なくされた人たちもおり、その多くはマンハッタン近辺で手頃なスタジオを見つけるのは困難なため、生活拠点とともに制作の場をニューヨーク州北部に移しているという。「アマゾンがくることで、アーティストのLIC脱出はますます加速するだろう」とクリスティーナさんは話す。
アーティスト・コミュニティが育たない理由
クリスティーナによると、LICはソーホーやチェルシーのようなアートセンターになると、長い間言われてきたものの、人影はまばらで、アーティスト同士のつながりも薄く、「アート」な街には程遠いという。クリスティーナが入居するスタジオビルのオーナーは、「アーティスト・コミュニティの育成・サポート」を貸し出しの際の売りにしていたが、実際アーティストたちが自らイベントを企画しようとすると頑なに退けてきた。こういった「ビジネスライク」なスタジオオーナーの存在も、アーティストたちのネットワーク形成を阻んできた一因だという。
「ジェントリフィケーション」が進んだ例としてよく挙がる、ブルックリンのウィリアムズバーグやブッシュウィックは、地下鉄のLトレインで直結しているイーストヴィレッジやアルファベットシティからクリエイティブな人たちが大量に移住してきたことが背景にあった。日中活動するアーティストの数では引けを取らないはずのLICだが、LICに転入してくるのは、隣接するミッドタウンの金融機関や法律事務所などで働く人々が多く、彼らと一帯のアーティストたちとの接点はほとんどない。
こういった人口動態や地理的条件も、LICにおける「アート・コミュニティ」が育ちにくい要因だろうとクリスティーナは語る。「アマゾンがやってくることで、エリアが活性化し、近隣のアート施設などに足を運ぶ人は増えるかもしれない。だからと言ってこれからアーティスト・コミュニティが成長するとは考えにくい」という。
アマゾンは来年よりLICでの採用活動を始めるという。高給の社員向けに、周辺一帯の家賃がさらに値上がりし、アーティストたちにさらなる影響が及ぶのは想像に難くない。アーティストたちが、一方的な家賃の値上げに応じるか、退去するかという二者択一を迫られているのには、アーティスト・コミュニティの不在によって、まとまった声を上げにくいという状況があるだろう。
LICには、通称「5Pointz」として広く知られた「クレーン・アート・スタジオ」のように、開発のために建物そのものが解体された例もあり、今後は「スタジオビル」の存続自体も危ぶまれるケースが増えてくるかもしれない。アマゾンが地元アーティストに還元するベネフィットを享受できるようになるまで、アーティストたちは地域での活動を続けることが可能なのだろうか。またアーティストの脱出がさらに進んだ場合、ニューヨークのアートシーンはどのように変わっていくのだろうか。様々な要素が絡んでいるこれらの問題、多方面から今後の動向を追っていきたい。