映画が絵画を描くとき 『ゴーギャンタヒチ、楽園への旅』
「何もかもが腐って薄汚く 描くべき顔も風景もない」。こうつぶやくのは、生活に追われるパリを捨て、自然のなかでただ描くことだけを求めたポール・ゴーギャンである。
『ゴーギャン タヒチ、楽園への旅』は、こうしてタヒチへと旅立ったゴーギャンの物語だ。しかし、この種の映画によくある創作の秘密、隠された真実などはここにはない。本作にあるのは、当の映画自身がひとつの絵画を描き出そうとする試みである。病と貧困に喘いでいたゴーギャンは、「原始のイヴ」テフラと出会い、精気を取り戻していく。映画はまるでゴーギャン自身が「描くべき顔」であるかのように彼をとらえ続ける。そこでのゴーギャンはテフラに寄り添い、彼女と一体となる者として演出されている。語らい、歌い、夜をともにし、絵を描き続ける。まさにゴーギャンが夢見た、野生の生活と制作の幸福な合致である。
しかし、幸福なときが、あるいは傑作絵画を映し出したそのときが、ただちに映画の最良の場面となるわけではない。実際の傑作絵画を映すことと、映画自らが絵画を描くことはまったく別のことなのだから。
本作の真価は、ゴーギャンが帰国を決意したそのときに現れる。すなわち、幸福なときが破綻し、一体となったテフラ=野生との距離が決定的になった瞬間だ。カメラの切り返しによる視線の交錯で、無言のうちにつくり出されたその隔たりは、どんな言葉よりも雄弁でかつ曖昧さをたたえている。被写体との間につねにあるカメラと同じく、描く者と描かれる者との間に置かれたキャンバスは、特別で親密な2人の空隙こそを写し取っているかのようだ。
そこに描かれた絵画の名前を私は知らない。しかしその空隙は、幸福な過去のひとときをともに過ごしたことによって生み出されたものであると私たちは知っている。スクリーンに明示されることのないこの不可視の絵画は、本作を見た者にしか味わえぬ悲しき傑作である。
(『美術手帖』2018年1月号「INFORMATION」より)