EXHIBITIONS
150年
東池袋一区画の建築群(全6棟)で、展覧会「150年」が開催されている。
以下、本展の脚本を担当し、出展作家の布施琳太郎による展覧会ステートメントとなる。
「会場は、再開発によって取り壊しが決定している東池袋の一区画の建築群、全6棟の広大な敷地である。そこには戸建て住宅から町工場、複数のオフィスが入居する雑居ビルなどが密集している。それぞれ築年数の異なる建築群だが2025年には一斉に取り壊される予定だ。
本展は、巨大ビルを舞台に日本美術の現在地を描き出して大きな話題を呼んだ展覧会『惑星ザムザ』以来となる田中勘太郎と布施琳太郎のタッグによる共同企画である。前回は布施がキュレーションを担当したが、今回は田中が総監督をつとめる。
本展タイトルの発案者でもある田中は、展覧会にかかわる作品設置の現場や展覧会の方針を監督する。さらに、それぞれまったく異なる空間を持つ6棟の建築群に大穴をあけたうえで、独自の仮設通路を貫通させる。パラレル状の道、鑑賞導線によってバラバラの建築は壊されながら結びあわされて、ひとつの展覧会『150年』となるのだ。
このような舞台で開催される本展が相手取るのは、150年『前』や『後』ではなく、ただの時間の量としての『150年』である。
それは人類にとっては先祖の顔、あるいは未来の発展といった現実がギリギリで想起できない時間量だ。
参加作家たちによる多様な作品を通じて150年は様々に現実化する。150年が建築群に受肉される。ここで提示されるのは、複数的な時間旅行である。その旅行は、いまここにある建築群の過去に束縛されない。各作家が準備しているのは互いに異なる150年のかたちなのだ。
気が付けば同時代性がたんなる権威づけの手段として使われる今日の現代アートに対して、複数の作家たちが『150年』という時間量を設置する本展は、芸術作品を通じて〈無から傷を生じさせることはできるのか?〉を問う。それは矮小化した現代アートとはまったく別の時間感覚に向けた賭けだ。
ここに集積される異形の時間たちとの出会いによって来訪者のイマジネーションを暴走させること。それが本展の賭けであり、いまもまだ芸術に残された可能性だと信じている」(展覧会ウェブサイトより)。
出展作家は、大竹舞人、小野まりえ、加藤広太、黒瀧紀代士、島田清夏、副島しのぶ、髙橋穣、高見澤峻介、田中勘太郎、布施琳太郎、Houxo Que、宮原嵩広、横井菜々、吉田山+orm。
以下、本展の脚本を担当し、出展作家の布施琳太郎による展覧会ステートメントとなる。
「会場は、再開発によって取り壊しが決定している東池袋の一区画の建築群、全6棟の広大な敷地である。そこには戸建て住宅から町工場、複数のオフィスが入居する雑居ビルなどが密集している。それぞれ築年数の異なる建築群だが2025年には一斉に取り壊される予定だ。
本展は、巨大ビルを舞台に日本美術の現在地を描き出して大きな話題を呼んだ展覧会『惑星ザムザ』以来となる田中勘太郎と布施琳太郎のタッグによる共同企画である。前回は布施がキュレーションを担当したが、今回は田中が総監督をつとめる。
本展タイトルの発案者でもある田中は、展覧会にかかわる作品設置の現場や展覧会の方針を監督する。さらに、それぞれまったく異なる空間を持つ6棟の建築群に大穴をあけたうえで、独自の仮設通路を貫通させる。パラレル状の道、鑑賞導線によってバラバラの建築は壊されながら結びあわされて、ひとつの展覧会『150年』となるのだ。
このような舞台で開催される本展が相手取るのは、150年『前』や『後』ではなく、ただの時間の量としての『150年』である。
それは人類にとっては先祖の顔、あるいは未来の発展といった現実がギリギリで想起できない時間量だ。
参加作家たちによる多様な作品を通じて150年は様々に現実化する。150年が建築群に受肉される。ここで提示されるのは、複数的な時間旅行である。その旅行は、いまここにある建築群の過去に束縛されない。各作家が準備しているのは互いに異なる150年のかたちなのだ。
気が付けば同時代性がたんなる権威づけの手段として使われる今日の現代アートに対して、複数の作家たちが『150年』という時間量を設置する本展は、芸術作品を通じて〈無から傷を生じさせることはできるのか?〉を問う。それは矮小化した現代アートとはまったく別の時間感覚に向けた賭けだ。
ここに集積される異形の時間たちとの出会いによって来訪者のイマジネーションを暴走させること。それが本展の賭けであり、いまもまだ芸術に残された可能性だと信じている」(展覧会ウェブサイトより)。
出展作家は、大竹舞人、小野まりえ、加藤広太、黒瀧紀代士、島田清夏、副島しのぶ、髙橋穣、高見澤峻介、田中勘太郎、布施琳太郎、Houxo Que、宮原嵩広、横井菜々、吉田山+orm。