EXHIBITIONS
豊嶋康子 発生法──天地左右の裏表
東京都現代美術館で「豊嶋康子 発生法──天地左右の裏表」が開催されている。
豊嶋康子(1967〜)は、90年より30年以上にわたって、様々な制度や価値観、約束事に対して「私」の視点から独自の仕方で対峙し続けてきた。物や道具の仕組み、学校教育、経済活動から日常の様々な行為まで、人々に内面化、自動化されてきた思考や行為の枠組みやルールを、自身の感じる違和感や関心を梃(てこ)として独自の仕方で読み替え、とらえ返すことで、人の思考の型の形成、社会と自己の成り立ちの在り様を問うてきた。
豊嶋の制作は、90年の《エンドレス・ソロバン》や《鉛筆》など、ものの使用法や構造に従い、守りつつ攻めるといった方法で別様に展開し、その機能を宙吊りにする作品から始まる。90年代後半からは、「表現」の領域を広く考察し、銀行での口座の開設や株式の購入、生命保険への加入といった社会・経済活動そのものを素材として用いて、特定のシステムの全体を「私」の一点から逆照射するような《口座開設》《ミニ投資》などを発表。
2005年の《色調補正1》では、一般的に共有される色の体系を「私」の設定のもと、ひたすらに塗り替えることを試みている。作品それぞれの外観は幅広いものだが、それらはいずれも、いわゆる既成の仕組みや枠組み、順列などに対して、脈絡を守りつつ「私」を用いて別の見方を挿入し、本来の意味作用を逸脱させ、歪ませ、反転や空回りをさせることで、その構造と人々の認識や体験の「発生」をとらえようとするものだといえる。その後も、順序や表/裏、支持体と図、天と地、つくるとつくらないなど、こうした二項自体をずらし、重ね、また反転させ続け、複数の見方が現れる作品群が生み出している。
本展は、豊嶋の制作の全貌を、初期作品から新作まで400点近くを一堂に集め検証する初めての試みだ。自身の思考を素材とする一種の潔さとユーモアをもって、事物に対する「私」の応じ方をかたちにし、様々なシステムと「私」双方の「発生法」をとらえようとする豊嶋の制作は、人々の思考や行為、そして自由の領域について、あらためてとらえ返す契機を与えてくれるだろう。
豊嶋康子(1967〜)は、90年より30年以上にわたって、様々な制度や価値観、約束事に対して「私」の視点から独自の仕方で対峙し続けてきた。物や道具の仕組み、学校教育、経済活動から日常の様々な行為まで、人々に内面化、自動化されてきた思考や行為の枠組みやルールを、自身の感じる違和感や関心を梃(てこ)として独自の仕方で読み替え、とらえ返すことで、人の思考の型の形成、社会と自己の成り立ちの在り様を問うてきた。
豊嶋の制作は、90年の《エンドレス・ソロバン》や《鉛筆》など、ものの使用法や構造に従い、守りつつ攻めるといった方法で別様に展開し、その機能を宙吊りにする作品から始まる。90年代後半からは、「表現」の領域を広く考察し、銀行での口座の開設や株式の購入、生命保険への加入といった社会・経済活動そのものを素材として用いて、特定のシステムの全体を「私」の一点から逆照射するような《口座開設》《ミニ投資》などを発表。
2005年の《色調補正1》では、一般的に共有される色の体系を「私」の設定のもと、ひたすらに塗り替えることを試みている。作品それぞれの外観は幅広いものだが、それらはいずれも、いわゆる既成の仕組みや枠組み、順列などに対して、脈絡を守りつつ「私」を用いて別の見方を挿入し、本来の意味作用を逸脱させ、歪ませ、反転や空回りをさせることで、その構造と人々の認識や体験の「発生」をとらえようとするものだといえる。その後も、順序や表/裏、支持体と図、天と地、つくるとつくらないなど、こうした二項自体をずらし、重ね、また反転させ続け、複数の見方が現れる作品群が生み出している。
本展は、豊嶋の制作の全貌を、初期作品から新作まで400点近くを一堂に集め検証する初めての試みだ。自身の思考を素材とする一種の潔さとユーモアをもって、事物に対する「私」の応じ方をかたちにし、様々なシステムと「私」双方の「発生法」をとらえようとする豊嶋の制作は、人々の思考や行為、そして自由の領域について、あらためてとらえ返す契機を与えてくれるだろう。