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ジャン=ミシェル・バスキア

Jean-Michel Basquiat

 ジャン=ミシェル・バスキアは1960年アメリカ・ブルックリン生まれ。ハイチ出身の父と、プエルト・リコ系の母を持つ。幼少期に、ブルックリン美術館やニューヨーク近代美術館、メトロポリタン美術館などに通い、美術の素養を身につける。また、ヘンリー・グレイの解剖画集『グレイの解剖学』を読み、影響を受ける。

 76年、ニューヨークのハイスクールから美術科目のあるシティ・アズ・スクールへ転校。グラフィティ・アーティスト、アル・ディアスと出会う。2人で「SAMO(Same Old Shit)」を名乗り、地下鉄やストリートに挑戦的なスプレー・ペインティングを描く。78年にシティ・アズ・スクールを退学。家出して友人宅を転々としながら、自作のポストカードなどを制作し、アンディ・ウォーホルにも売り込む。同時期に、新聞『ヴィレッジ・ヴォイス』に「SAMO」の記事が掲載。ニューヨークで話題になるも、ディアスとの喧嘩が原因で解散する。

 80年、グループ展「タイムズ・スクエア・ショー」で初めて公的な場で作品を発表し、画家としてのキャリアをスタート。当時の新進作家、ジェニー・ホルツァーやキキ・スミスらの作品と並ぶ。翌年、P.S.1でのグループ展「ニューヨーク・ニューウェイヴ」と、キース・ヘリング企画の「ロウワー・マンハッタン・ドローイング・ショー」に参加。早くも批評が『アートフォーラム』誌に載る。82年に初個展を開催。同年のドクメンタ7に、最年少の21歳で参加する。83年、スタジオをウォーホル所有のビルに移転し、交流を深める。85年にはウォーホルとの2人展を開催。展覧会ポスターにはボクサーに扮するバスキアとウォーホルの写真が採用された。87年にウォーホルが死去。同年、その死を悼んだ作品《墓石》を制作。88年、急性薬物中毒によって27歳で亡くなる。

 短い生涯でバスキアが描き残したドローイングは3000点以上、絵画は1000点以上。初期には、『グレイの解剖学』からの影響が見て取れる頭蓋骨や人体図を描き、続いて文字のみを配した詩的なドローイングや古い板などをキャンバスとした絵画作品、そして一見無作為のようで洗練された構図にモチーフを緻密に描き込んだ大型作品へと展開した。96年、バスキアと同時代の画家ジュリアン・シュナーベルが監督した伝記映画『バスキア』が公開。2017年に前澤友作が《Untitled》(1982)を約123億円で落札した。