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グスタフ・クリムト

Gustav Klimt

 グスタフ・クリムトはオーストリアの画家、1862年ウィーン生まれ。14歳でウィーン工芸美術学校に入学。在学中に弟・エルンストと同級生のフランツ・マッチュと「芸術カンパニー」を創設し、皇帝フランツ=ヨーゼフと皇妃の銀婚式を祝う行列装飾や、ブルク劇場のウィーン美術史美術館の壁装画の制作などの仕事を受ける。88年、皇帝より黄金功労十字章を受章。91年、ウィーン美術家協会に加入する。この翌年、父とエルンストが死去。94年に、文部省よりウィーン大学大講堂の天井画の制作依頼を受けて、クリムトが《医学》《哲学》《法学》を担当するも、伝統的な表現形式にふさわしくないと批判され、最終的に展示を取り下げる。

 97年にウィーン美術家協会を脱退。保守的な体制に反発するウィーン分離派が結成され、初代会長に任命される。ウィーン分離派は、絵画・彫刻・建築とデザイン・装飾が融合する「総合芸術」を目指し、また諸外国の美術も紹介しながら活動。1902年、マックス・クリンガーの《ベートーベン像》を中心とした分離派展で、クリムトは壁画の連作「ベートーベン・フリーズ」(1902)を出品する。

 03年にイタリア・ラヴェンナを旅行。モザイク画に感銘を受け、《接吻》(1907〜08)に代表される「黄金様式」を確立する。黄金様式はエジプト美術や日本の金屏風などの影響も見られ、金の装飾をちりばめた奥行きのない画面に、愛や生と死の主題を官能的に描く。晩年は、《乙女たち》(1915)や《生と死》(1915再制作)のように、装飾的でありながら色彩を抑えた作品を制作。生涯にわたって風景画も多数残し、とりわけアッター湖畔の情景を好んで題材とした。また、ヨーゼフ・ホフマンらが設立したウィーン工房に参加。ウィーン工房が提唱した「用の美」の集大成と言える、実業家アドルフ・ストクレの自邸の食堂壁面を、クリムトの《成就》《期待》(1905〜09)などが飾る。1918年没。