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レオナルド・ダ・ヴィンチ

Leonardo da Vinci

 レオナルド・ダ・ヴィンチは盛期ルネサンスに活動した芸術家、科学者、発明家。1452年、イタリア・トスカーナ地方のヴィンチ村に生まれ、アンドレア・デル・ヴェロッキオの工房で修業を積む。ヴェロッキオのもとでは《キリストの洗礼》(1470〜74頃)を師弟で共作したほか、最初期の作品《受胎告知》(1472〜75頃)などを手がける。72年に一人前の画家として認められ独立。81年に初めての依頼を受けて《東方三博士の礼拝》(1481〜92)に着手するも、未完のまま83年にフィレンツェからミラノへ拠点を移す。ミラノではルドヴィーコ・スフォルツァ公のもとで画家、また兵器を開発する軍事技師として働き、傑作《最後の晩餐》(1495〜98)をこの地で描いている。99年にフランスの侵攻によってミラノ公が追放されたためフィレンツェに一時帰郷。イタリア各地を旅したのち再びミラノに戻る。1513年にはローマを訪れ、その後、敵対国のフランス王フランソワ1世の宮廷画家として仕えることとなる。

 ミラノで描かれた《最後の晩餐》は、キリストが12使徒のなかに裏切り者がいることを告げる一場面を描いた作品。裏切り者のユダはそれまでほかの使徒と離されて描かれていたが、レオナルドは12人とキリストを同席させるという革新的な構図を取り入れ、顔つきの違いや身ぶりで使徒それぞれの感情の揺れ、その場の緊張感を表現した。フィレンツェに戻った際に制作を始めた《モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)》はヴェネチアの商人の妻・リザ夫人の肖像画とされる作品。顔料を丹念に薄く塗り重ねて輪郭をぼかす「スフマート」の技法を使うことで、立体的な現実の身体に近づけ、また背景の山岳には、遠くのものほどぼやけて見えるという発見をもとにスフマートを発展させた「空気遠近法」を用いている。ほほえむ女性のモデルは別にいる、レオナルドの理想の女性像を体現しているなど現在も様々に解釈される謎の多い作品は、依頼主に届けられることなく最後まで画家の手元に置かれ、ラファエロ・サンティなど後続たちの肖像画の手本となった。

 レオナルドは人並み以上の好奇心から、とくに自然や生き物など様々な事物を観察・研究し、工学、数学、医学と多くの分野に精通していた。発明品を多数考案したがほとんどは実現できず、画家として絵画も多くは残していない。同時代に活動し、絵画についての考え方で対立していたミケランジェロ・ブオナローティとの競作《アンギアーリの戦い》も未完の作品のひとつ。1503年、ヴェッキオ宮殿(現・フィレンツェ市庁舎)の大広間のための壁画の制作に、レオナルドとミケランジェロが指名され、それぞれ《アンギアーリの戦い》《カッシーナの戦い》を向き合わせて配置する計画が立てられたが、両者が国外へ出たため、現在では習作や模写のみが当時の手掛かりとして残されている。晩年に解剖学に熱中していたレオナルドの研究成果や、実現に至らなかった計画が集約された「手稿」は、フランス・クルーで師を看取った弟子のフランチェスコ・メルツィの手に渡った。19年没。晩年の作品に《聖アンナと聖母子》(1510頃)、《洗礼者ヨハネ》(1513〜16)がある。

 日本では、1974年の東京国立博物館での「モナ・リザ展」で《モナ・リザ》が初来日し、また2007年の同館「レオナルド・ダ・ヴィンチ -天才の実像」展では初期の作品《受胎告知》が日本初公開された。15年に未完の作品の探究をテーマとした「レオナルド・ダ・ヴィンチと『アンギアーリの戦い』展」を東京富士美術館が開催。17年、クリスティーズのオークションにて、男性版モナ・リザとも称される《サルバトール・ムンディ》が世界最高額の500億円以上で落札され話題となった。