「関係性」から「参加型」へ クレア・ビショップ=著 大森俊克=訳 『人工地獄 現代アートと観客の政治学』
1990年代以降、世界各地で「参加」と「協働」を中核とする現代美術が増殖し続けている。しかし、いわゆる「関係性」以前から優れた芸術は必然的に社会に関与してきたのではないか。こうした問題意識に基づいて、本書は「参加」を「演劇やパフォーマンスという手立てによって、人々の存在が芸術的な媒体と素材の中心的要素となる」ものとして定義し、参加型アートの意義を再考する。
ビショップは、主にヨーロッパ、ロシア、南米に焦点を当て、芸術が今日の「参加型アート」に至るまでには3つの歴史的転換点(1917、68、89年)があったと指摘する。最初の転換点として検討されるのは、イタリア未来派の「夜会」、ロシアの「プロレトリクト」演劇とマス・スペクタクル、そしてパリの「ダダの季節」によるイベントである。これらの運動は、挑発・演出・散策といった多様な手段を通じて観衆=鑑賞者に「参加」を促し、政治と芸術を接続した点で共通する。
とりわけ、ビショップは「ダダの季節」とアンドレ・ブルトンによる事後分析(本書タイトルはここに由来する)との関係に注目する。なぜなら、それは参加型アートと批評の「より果敢にして情動的で、そして紛争を辞さない」緊張関係を表し、さらに「遅発的な触媒」として、未来の社会と共鳴する可能性を示唆しているからだ。つまり、参加型アートは、主体に温情・合意・抑制を課す「倫理的転回」によって規定されるべきではなく、錯綜・混乱・矛盾を経験する主体の自律性を包容し、芸術的な力動へ変換する「美学的体制」を獲得しなければならない。
例えば、彼女はジェレミー・デラーの《オーグリーヴの戦い》(2001)の多義性――労働者と中産階級の遭遇、トラウマとエンターテインメントの並置、パフォーマンスと映像と書籍で表象されるイデオロギーの差異――を高く評価する。あるいは、芸術の社会的有益性=「有用芸術」を標榜するタニア・ブルゲラの《態度の芸術学校》(2002-09)を、作家自身の主張に反して芸術的想像力の観点から再評価しようとする。
参加型アートを、社会的改善を強制する「政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)」へ縮減することなく、予断を許さない「委任されたパフォーマンス」として顕現させること。「参加」それ自体が目的化され、参加者が作家の志向につき従うだけのプロジェクトが蔓延する日本で、真の参加型アートが実現される日はやって来るのだろうか。
(『美術手帖』2016年8月号「BOOK」より)