個人として歴史に挑む、作家の行ない
社会システムに疑義を呈する行為を公共空間で実践してきた丹羽良徳が、満を持して2冊の書籍を発表した。
まずは2010年に開始した共産主義シリーズのモノグラフである『歴史上歴史的に歴史的な共産主義の歴史』。ブカレスト、モスクワ、日本を舞台とする映像作品のビデオ・イメージに加え、丹羽自身による各地での制作日記と国内外の批評家、キュレーターのテキストを集めた集大成的な一冊だ。
本シリーズで丹羽は、共産主義から民主主義へと移行したルーマニアで革命を体験していない若者たちと社会主義者を胴上げし、ソビエト時代の記憶をもつレーニン関連の遺物を探索すべくモスクワの一般家庭を訪問し、また日本共産党の本部を取材してその思想の起源にあるマルクスの誕生日を祝うなど、不条理やユーモアをも内包するプロジェクトを行ってきた。
資本主義の現代日本に生を享けたアーティストにとってはまったく地続きでないイデオロギーと、リアルタイムで見聞きしていない歴史に、なぜ遡及するのか。丹羽にとって10年代に共産主義を考えることは、「人の自由意思の最小単位である個と、その総体である社会との関係について想像力を働かせること」なのだという。そして丹羽は、イデオロギーが移り変わった国家の歴史の裂け目へと飛び込み、自身が拠って立つ世界がどのような歴史の連なりのもとにあるのかを再認識しようとする。
他方、08~14年までのブログを編集して現在からの注釈を加えた『過去に公開した日記を現在の注釈とする:天麩羅』では、私的な経験を梃子にして「歴史」についての思索が試みられているように思える。
ただし、10年前の自分が思い描いていた未来予想図とは異なる現在に戸惑ったり、個人の終焉としての「死」に思いを巡らしたりする毎日は、注釈がつけられても常に不確実性や誤読の可能性にさらされており、完成した歴史となることはない。そのなかで、丹羽は現実の不確実性に翻弄されながらも主体の制御がきかない外部を歓待し、制作の契機となるアイデアを日々引き出していく。
「ぼくらは根源的には歴史が未来への架け橋を作ることを知っている」「無視できない自分と他人の関係を見つけ出した時に初めて、歴史を語ることができる」。14年7月14日に書かれたこのブログの言葉は、共産主義シリーズ、ひいては丹羽の活動の根底にある態度の表明といえよう。公と私を往還しながら歴史の語り出しに向けてトライ&エラーを繰り返す姿が、この2冊から伝わってくる。
(『美術手帖』2015年11月号「BOOK」より)