静岡県西部に位置し、日本屈指の茶処として知られる菊川市。一級河川の菊川に架かる橋を渡った先で手を振って出迎えてくれていたのが、横山海夫(よこやま・うみお)さんだ。「朝起きて体操しているから健康ですよ。オリンビックやパラリンピックの人たちを観ていたら、鍛えりゃ凄い力がつくもんだと感動して、数年前から体を鍛えるようになって」と、その若々しい姿からは想像できなかったが、なんと現在96歳で昨年は8回目の年男だったという。
1927年生まれの横山さんは、2人姉弟の長男として、この街で生まれた。卯年(うさぎどし)生まれだったため、両親は卯美男(うみお)と名づけたかったようだが、戦時下の状況であえなく、海夫となったようだ。「山と海を持ったすごい名前になっちゃったなぁ」と笑う。
姉とは20歳ほど離れ、長男だったこともあり、家族からは大切に育てられ可愛がられた。そのせいか、子どもの頃は気が弱かったと話す。小さいときから絵を描くことは好きで、尋常高等小学校では、美術クラブに所属。頻繁にコンクールでは入選するなどして、その才能を発揮した。「自分の描いたものが先生から褒められたり社会からも評価されたりして自信がついたね」と当時を振り返る。卒業後は、静岡県立掛川中学校(現在の掛川西高等学校)へ進学した。
「みんなで予科練(海軍飛行予科練習生)になろうと、仲間と指を切って血判を押してね。浜松まで徴兵検査を受けに行ったんだけど、わしは頭悪いもんで試験ができなんで採用されなかった。いまになって思えば助かったんだけどね」。
中学の終わりになると、学徒動員により名古屋市枇杷島にある軍事工場で寮生活を送りながら働くこととなった。飛行機のエンジンの威力を上げるために噴射ポンプをつくる旋盤の仕事に従事していたようだ。
「戦争が激化して、名古屋の街に照明弾が落ちて明るくなるのを眺めていた記憶があります。1944年12月に昭和東南海地震があったときは、ちょうど外にいて寮がぐらんぐらん揺すれて、窓に捕まって必死で叫んだね。菊川は被害がひどくて、実家も全壊しちゃったわけ。被災した子供は帰してもらえたんだけど、鉄道が破壊されちゃったもんで、トラック輸送で山を経由して戻ってね。家へ帰ったら、焚き火だけが燃えていて近所の人から『6軒ほど先へ避難してる』って聞いて行ってみたら、家族みんな無事だった。あとで聞いたら、方々で煙が上がって家が崩れていくもんで、こりゃ爆弾が落とされたと思っていたって」。
終戦後は、現在の国立印刷局静岡工場へ勤務したが、肺炎を患い1年半ほどで退職せざるを得なかった。その後、1948年からは近所の人の勧めで代用教員として掛川市内の小学校へ勤め始めた。
「先生たちが兵隊へ行っちゃったから、わしらみたいに旧制中学を出た人間が教員として勤務したんです。でも翌年に、学校で結核が流行して、わしも半年ほど入院してね。家族と離れ暮らすことになったから、入院するときに子供が辛い顔をしてたでよ」。
結核の治療薬が広まったことで完治し、教員として復職することができた。以来、1987年に退職するまで40年近く教師として働いてきたというわけだ。昔から目で見たものを絵や工作で再現してみたくなる不思議な性質があったという横山さんがひときわ力を入れたのが、小学校での美術や図工の授業だった。ただ「採点なども家に持ち帰ってやっていたから、自分で何かを創作するなんて時間はまったくなかった」と語る。
そんな横山さんがものづくりを始めたのは、退職後に教育委員会で家庭教育指導員として働き始めてからのことだ。成人式などの際に舞台で飾る看板を描いたり、城などの様々な大型オブジェをつくったりしているうちに、自宅でも創作に取り組むようになった。床の間に飾られていた大型の鶴や玄関にあったタヌキの置物などは、イベントの際に自作したものを自宅用に再制作したものだ。鶴は木材で支持体を制作し、隙間に新聞紙や布などを詰め込んで紙粘土を貼り付けて造作。表面の羽根の部分は紙を切って糊で貼り付けていった。タヌキも同様の手法だが、コンテナを組み合わせて支持体にしたのだという。
自宅の隣には横山さんの両親が開業した駄菓子店「ふなみや」があり、かつては横山さんの妻が、そして現在は次女が店を切り盛りしている。「ふなみや」という不思議な店名は、近くにある寺社の名前をもとに近所の人たちから名前を募集して決めたというから、昔からこのお店が地域の人たちにいかに愛されてきたかということがわかる。
店の前には奇妙な色をしたトトロのキャラクターを模した人形たちが鎮座していた。次女によれば、「近所の人からトトロをつくってと依頼されたけれど、父は知らなかったのでぬいぐるみを購入したり写真を見ながら制作したりしたんだけれど、自分の家用にもう1個つくったんです」とのこと。聞けば、玄関先にあるタヌキの置物も色々な人から新築祝いの制作を依頼され、3個ほどつくっているようだ。僕は、横山さんが自分の家用にも作品をつくっているのは、たんに作品を手元に残しておきたいからだと思っていた。でも、当の本人は「つくってから何年も経ってるし、邪魔んなるから壊すといったら、孫が壊さないでっていうのよ」と語るように、それほど作品への執着はないようだ。それよりも、過去作を再制作することで、作品に改良を施したり同じモチーフに取り組んだりすることが横山さんにとっての喜びとなっているのだろう。「つくりたい」という表現欲が横山さんの作品からはあふれているようだ。
さらに、店内へ一歩足を踏み入れて驚いた。店の半分が横山さんの大作で埋め尽くされていたのだ。「年をとって、みんなやることないと暇になって、それは健康に良くないというじゃない。わしは何をやるかなと考えた。好きなのはつくることで、これは健康にもいいがと思ってね」と横山さんは80歳から10年もの間、常葉美術館で開催された公募展への出展を続けてきた。作品をひとつひとつ見ていくと、様々な技法へ果敢に挑戦していることがわかる。80歳を超えてなお、湧き上がるこの表現衝動に、僕はカメラを向けずにはいられなかった。
残念ながら、2021年に美術館が移転してしまったため、現在は出展する場所がなくなってしまったようだが、それでも横山さんが制作の手を止めることはない。96歳の現在でも、ウサギのオブジェや大きな絵馬を制作するなど、その創作意欲が尽きることはないようだ。近年では、横山さんに影響されて次女も絵画制作に取り組むようになった。
「年をとって、自分の好きなことを何か持つってことは、人生に足しになってるから有り難いことだな。でも、もう小学校の同級生もほとんど亡くなってるし、わしのようなこんな弱い男がなぜ生きているのか不思議で仕方ない」と横山さんは呟く。お話を伺うなかで「自分は弱い」という言葉を、何度も口にしていた。きっと戦争体験や被災、そして結核など人生の中で落ち込んだり、不安になったりして自分の力ではどうにもならなかったことを幾度も経験してきたのだろう。でもそんなときに、横山さんにとって孤独に耐える手段こそが、制作と向き合うことだった。幼少期や教員時代、そして退職後と何かを表現する場があったからこそ、自分の思いを作品にぶつけることができ、横山さんいわく「自分で生きていく力」を身につけることができたのだ。
「これからは絵手紙もやってみたい」と高齢になってもなお、挑戦し続けるその姿に、思わず我が身を振り返ってしまう。「もう年だから」とか「いまからでは遅い」と口にするのはもうやめにしよう。こんなにも挑戦し続けている人がいるのだから。