滋賀県甲賀市にある障害者支援施設「やまなみ工房」。従来の福祉の枠を超える活動は話題を呼び、国内外の展覧会やアートフェアで注目を集める人気アーティストも多数在籍している。90名ほどの障害のある人たちが利用しているが、訪問するたびに新しいアーティストが次々と生まれている様子は筆舌に尽くしがたい。
そんな工房の敷地内でひときわ大きな存在感を放っているのが、吉田楓馬(よしだ・ふうま)さんが生み出す作品群だ。吉田さんは、古着や靴に扇風機、はたまた自転車に至るまで、日常で使い捨てられた廃材や廃品を組み合わせ、作品制作を続けている。2016年から、やまなみ工房へ通う吉田さんの表現は、ドローイングから立体まで多彩に変化を遂げてきた。今回は、工房内のアトリエでひとり制作へ没頭する吉田さんに、これまでの人生や作品についてお話を伺ってきた。
吉田さんは、1994年に埼玉県で2人きょうだいの長男として生まれた。4歳のときに、父の実家がある熊本へ家族で転居。
「小学校の頃から落ち着きがなくって、落ちているゴミを口にしてみたりこれをやったら叱られるってことを故意にやってみたりと、いま思うと変なことばっかりしていました。当時はそれを友だちからイジられていたんですけど、叩かれることもあったから、イジメられていたのかも知れません」。
子供の頃は、明るくて活発な性格だった吉田さんに転機が訪れたのは、中学2年生になったときのこと。クラス替えのタイミングで周りが知らない友だちばかりになったことで、引っ込み思案になってしまった。途中から学校へ行きたくない気持ちが高まり、3年生に上がるとイジメを受け、家へ引きこもるようになった。自室で熱中していたのは絵を描くことだったという。
「保育園のときは、お絵描きやブロックを使って動物や乗り物を組み立てることが好きでした。保育園の年長になると、平成仮面ライダーの放映が始まり、夢中になって観ていました。でも、僕が魅了されたのは仮面ライダーではなく怪人のほうで、『どうして好きな怪人がいつもやられちゃうんだろう』と幼心ながら違和感を感じていたんです」。
16歳のときには、単身赴任をしていた父親を追いかけるように家族で滋賀県へ引っ越した。高校へ入学したものの、1週間ほどで不登校となった。その後、スーパーなどで幾つかアルバイトを始めたが、どれもそれほど長続きしなかったようだ。20歳のときには、担当医の勧めで精神障害者保健福祉手帳を取得。
「小さい頃より、父親から『これはだめ、こうしなきゃだめ』と叱られてばっかりで、苦しかったんですよね。『工業高校に行って資格をとったほうが役に立つから、この学校へ行け』と言われたこともあります。だから手帳を取得して障害者として認められたことが、僕にとっては肩の荷が降りた気分でした」。
ハローワークの紹介で、市内の地域生活支援センターへ通い始め、そこで絵を描いていたが、両親から「そこで絵を描いていても、趣味で終わってしまう。流石にステップアップしたほうがいい」と背中を押されたことを機に、21歳からやまなみ工房が運営する障害者就労継続支援B型施設「ゆとりあ」へ所属。
「同じ敷地内で、アート活動をやっているなんて何も知らずに利用していたんです。どらちかというと、嫌々通っていました。軽作業に取り組んでいるとき、作業している窓から工房のアトリエが見えて、スタッフの人に聞いたら『アート活動をしている場所だよ』と教えてくれて、直感的に行きたいと感じました」。
工房が運営するカフェへ立ち寄った際、スタッフの人が興味を示してくれるようにと、吉田さんは自分が描いた絵をテーブルに広げて待っていたようだ。その作戦が功を奏し、翌日からやまなみ工房へ通うことができるようになった。週2回半日の利用から始まり、昨年は週に5日も利用するまでになった。一時は、カフェにも手伝いで入っていたが、無理が祟り身体を壊してしまったこともあるという。2022年1月からは、一人暮らしを始め、現在は週4日ほど通っている。
「創作活動に出会えて、随分と元気になりました。15歳から大量に薬を飲んできて、ときには1日中寝たきりになったりフラついたりすることもあったんですけど、現在は昔に比べると少ない量の薬だけで過ごすことができています」。
最初はA4サイズの紙に絵を描いていたが、次第に大きな紙へ取り組むようになった。当時の作品を拝見すると、昆虫をモチーフにした怪人や、目が印象的な絵画、そして剥き出しの感情を表出したような作品など、さまざまな表現へ貪欲に挑戦していった痕跡を窺い知ることができる。吉田さんによれば、「2年ほど経ったとき、周りの利用者に比べて自分は画風が確立していないことに焦り始めた」のだという。そして、あるときから空き缶やペットボトルに布や紙粘土などを組み合わせ、独自の立体造形をつくるようになったというわけだ。
「現在のような大きなオブジェの制作を始めたのは、2019年の夏頃からですね。アトリエの目の前にカエデの木が生えていて、隣のベンチで昼休憩時にゆっくりするのが好きだったんですけど、台風で木が倒れちゃったんです。『もったいないな』と思って、木の残骸でカカシをつくったことがきっかけです。当時は塗装するのに、自分で買ってきたスプレー缶を使っていたんですけど、スタッフから匂いなどを嫌がられていた気がしています。もちろん画材などを提供してもらうことはできたんですけど、僕の性格上、スタッフへ気を遣ってしまって言い出すことができませんでした。だから、1体つくるのに1万円以上もかけて制作していましたね」。
特徴的なのは、自らが使っていたリュックなど身の回りの物を素材として活用していることだ。「いまはスタッフの方から廃品などを提供してもらっているんですけど、昔は自分が着ていた服などを使っていました」と当時を振り返る。
制作にあたっては、100円ショップに売っているプラスチックの植木鉢を重ねて、針金や接着剤で固体し土台を作成。その上から廃材や廃品を組み合わせて、創作していく。これまでつくった大きなオブジェは、20体以上にもなる。最初は1ヶ月に1体のペースで制作していたが、近年は細部までこだわるようになり、大幅に時間を費やすようになった。
「展覧会へ出展する際、とっさに『いきる我楽多(ガラクタ)』と名づけたんですが、冷静になって考えてみると自分らしい名前だなと思っています。子供の頃から、親や友だちから自分はガラクタのように扱われてきて、『自分なんてゴミ同然だ』とネガティブになっていた時期もありました。もしかしたら自分を重ねているのかも知れませんね。だから、逆張りではないですけど、作品にはゴミやガラクタをできるだけ使いたいと考えています」。
吉田さんによれば、当初は「雨風に晒されて、作品が朽ちていくのも仕方ない」と考えていたが、次第に愛着を抱くようになり、現在はその一部をアトリエに運び、修繕を施すようになったという。そして直していくうちに、当初の造形から変化しているというから、その豊かな創造力に驚かされてしまう。一貫して、テーマにしているのは怪人やモンスターのような動物をモチーフとした人型生物だ。
「家で引きこもっていたとき、たまに外に出てスーパーとかに行っただけで、人に酔って吐いてしまったこともありました。イジメがあったときから、『人なんて死ねばいいのに』とずっと思ってきたので、怪人の存在に憧れを抱いていましたね。とくに最近では、もともと人間だったのに酷い仕打ちを受けて怪人になってしまうようなパターンがメディアで描かれることもありますから、妙に共感できちゃうんですよね。作品に関して言えば、周囲の人は『すごい作品じゃん』と言ってくれるんですけど、自分の中ではまったく納得できなくて。だから、自分で納得することができるクオリティの作品を生み出したいし、自分の作風を確立したいですね」。
近年では、作品が知られるようになったことで展覧会への出展や作品制作の依頼も増えているが、人から見られることや評価されることをプレッシャーに感じるようにもなっているのだという。これは吉田さんに限らず、アートワールドへ足を踏み入れてしまった者の宿命なのだろう。
「スタッフにはあまり言えないんですけど、ここへ来たら何か創作しなきゃと言う脳みそになっちゃって、無理やり絞り出していることのほうが多いかも知れないですね。特別にアトリエも与えてもらっているから、何もせずに寝ているのは申し訳なくって」。
一体どうすればいいだろうかと、部外者の僕は考え始めている。でも、どこかで安心している僕もいる。だって、やまなみ工房が何より大切にしているのは、アート活動そのものよりも、誰もが毎日を穏やかに楽しく過ごすことにほかならないからだ。いっぽうで、日々の葛藤のなかで、自分と向き合い、作品を生み出していく。ある意味で、これこそがアーティストの存在証明だとも言えるのだろう。
インタビューのなかで印象的だったのは、吉田さんが自作を紹介するときに「この子たち」と愛情を持って呼んでいることだった。敷地内に置かれた作品を改めて見つめていると、どれも愛嬌を感じてしまう。みんなはモンスターに見えるかも知れないけれど、僕には吉田さんを見守る「守護者たち(ガーディアンズ)」のように思えてくるのだ。まだ若い吉田さんの創作は、これからも続いていく。いまはまだ暗闇の途中かも知れないけれど、その先にどんな光が射し込んでくるのだろうか。