「小林伸一の妻です。20日午前1時に亡くなりました。櫛野さんに出会い良い人生を送る事が出来たと思います。本当にお世話になり有り難う御座いました」。
2023年1月22日、僕のスマートフォンのポップアップにそのメッセージは表示された。全国各地で取材を続け、これまで400人ほどの表現者と出会ってきた。今年に入ってから鬼籍に入られた方も多く、小林伸一さんもそのひとりになってしまった。
出会いは2016年3月27日。横浜市の洪福寺松原商店街を抜けた先に、植物や食べ物、鉄腕アトムなどのイラストが外壁に描かれた奇妙な家を見つけた。恐る恐る玄関を開けると、トイレや風呂場、二階への階段や寝室、そして家電や床に至るまで、ハートや富士山などが色鮮やかなタッチで描かれている。
この家に住む作者の小林さんは、家中に絵を描き終わってからは、木を削って小さな下駄の制作を続けていた。「ボケ防止のためにね」と話すその背後には、小林さんの腰の高さを優に超える下駄が山積みになっている。その量は寝室など他の部屋を占領し、生活に不便さを感じるほどだ。それでも小林さんが制作の手を止めることはなかった。自らの衝動の赴くままに表現行為を続け、つくらなければ死んでしまうような人が、そこには存在していた。
1939年に横浜市中区竹之丸で生まれた小林さんは、5歳のとき父親がアル中により50歳で他界してからは、母親に育てられてきた。子どもの頃、絵を描くことは苦手で好きではなかったようだ。いっぽう、工作はオール5で版画や彫刻が得意だったという。「僕が40歳のときに父親が宮大工をやってたことがわかったから遺伝なのかも」と笑って教えてくれた。
中学卒業後からは家具店や木工所、プラスチック会社、ボイラー会社、下水処理場や原子力発電所など全国各地を転々としながら必死で働いてきた。59歳のときにリストラを受け退職。何十もの仕事をこなし、がむしゃらに働いてきた小林さんの最後は、あっけない幕切れとなった。
「中卒だから、どこ行っても給料少なくて、年金も59歳までしか払ってないでしょ。だから、節約生活。水もメーター分回さないようタライに垂らしてて、そこにたまった洗面器2つ分を食器洗いのときに使ってんの。それで懐中電灯を照らしながら夕飯の支度をして、食べるときは豆電球ひとつで食べるの。あと食材を買いに行っても『これ火通すの』って聞いて、『通す』って言われたらもう買わないのよ。まぁ、うちのやつは浪費家だから、熱いものしか食わないんだよ、俺だけ節約生活なの」。
結婚は兄の紹介によるお見合いで35歳のときだった。そのとき、奥さんは26歳。それからずっと夫婦2人で暮らしてきた。「僕の家だから、どこに絵描こうが、奥さんには文句言わせないもんね」とよく語っていた。そんな小林さんに、退職してから次々と不幸が訪れた。
「60歳のころ、近所で建て替える家が多かったから、大工に聞いたら『20年しかこの家はもたない』って言われて、40年くらい前に建てたからさ、不安でノイローゼになっちゃって精神病院へ半年間通院したのよ。『家がぶっ壊れるんで、なんとかしてください』って駆け込んだら、先生も困ってたね。それで家から病院まで30分くらいかかるもんだから、次第に行くのが遠いから嫌になってやめたら、ノイローゼも治っちゃったの」。
翌年には、かかりつけ医に何度かMRIや問診をしてもらったときに、脳梗塞が見つかってしまう。幸い早期発見だったため、服薬治療で済んだそうだ。
「あと69歳のときには、乳癌になって2回手術したの。最初はマンモグラフィーやんないで診察だけで切られて、放射線治療を25回うけて10万円。4年経って、マンモグラフィーやってみたら、乳首の後ろにまだ癌があるって。頭きちゃったねぇ。それで乳癌で飲まされてた薬に骨がもろくなる副作用があって、骨のレントゲンを見た医者が『うわ、ひでえな。骨がスカスカだから転ぶなよ、転ぶと即死亡だよ』って言うの。だから当時は怖かったねぇ」。
絵を描き始めたのは、72歳のときのこと。それまで家の壁を3回ほど自分で塗装していたが、やがて高所での作業が怖くなってきたため、外のトタンのサビを業者に塗ってもらうことにした。その結果、今度は塗装してない箇所のサビが目立ったため、手が届く範囲を自分でも塗るようになり、その上から絵を描くようになったというわけだ。最初は家の外壁に描いていたが、外を通りかかった人が「ここに何を描け」などと言い出すようになり、リクエストに応じて描いていたら野菜や富士山、植物など、統一感のない絵が混在することになったとのこと。やがてトイレや風呂場など室内のあらゆる箇所にも絵を描くようになり、あとは床や天井を残すだけとなった。
「だいたい描けるところは描き終わって、下の方は寝っ転がって描くから取っといたんですよ。でも家の中を見た人は『みんな天井が空いてる』って言うけどさ、あそこに貼ってるのと同じ大きさのを270枚描いたんだよね。前に脚立から落っこって肋骨にヒビが入ったから、もう怖くて脚立登れないから押入れにしまいっぱなしなんだけど。天井を埋め尽くすくらい描いたの」。
そう言って小林さんが押入れから見せてくれたのは、1枚だけ天井の隅に貼られたものと同じ大きさの、多量のドローイングの束だった。なんでも40歳くらいから、キャラメルやお菓子の外箱のデザインを拡大して描き、それを様々な菓子メーカーに送っていたようだ。「これあげるよ」と初対面の僕に惜しげもなく、それら描いた絵を寄贈してくれた。
「朝3時半に起きたらまず、ひげ剃りのスイッチを入れるんですよ。夜に使った食器を外の薄明かりを利用して洗ったりなんかして、4時半くらいから朝食を食べてる。5時半くらいからやっと明るくなるんだけど、待ってられないから鏡を出して、薄暗いところで描くわけ。明るいところでみたら『はみ出てんな』ってこともあるし、あんまり寝てないから、いろんなことやってると、途中で眠くなってくるんだ。家の中はいまのところは全部描いてるんだけど、だんだん日が当たったりして色が薄くなってんだよね」。
聞けば、モチーフとして多用している「富士山」と「ハートマーク」は、たんに好きなのだとか。「富士山」に関しては、若い時は山登りもしていたようで、「神奈川県にある山は55回も登ったけど、富士山はどうも登る気がしない」とのこと。そして使用している画材は油性マジックだ。小林さんの絵をよく見ると、風呂場とトイレの扉には春夏秋冬をテーマにしたイラストが一枚ごとに描かれているし、点描のようなタッチが特徴的だ。でも、これは土壁に描いたときに、壁紙がとれないように仕方なく編み出した描き方らしい。参考にしている画家なんていない。ダイニングテーブルが小林さんのアトリエになっていた。
描く絵は、どこか縁起を担いだような作品が多かった。小林さんは、これまでいくつもの仕事をこなし流浪の人生を送ってきた。退職後は「死ぬかもしれない」という恐怖を抱えながら生きてきた。小林さんがそれまでの人生を浄化するように描き出した作品群は、苦悩を直接的に表現するのではなく、自らを幸せに導いてくれるようなポップで明るいものだった。
僕が書籍や雑誌などで小林さんのことを紹介するたびに、「襲撃するぞ」と小林さんは毎回たくさんのお土産を持って出版社を訪れた。2019年に東京ドームシティで「櫛野展正のアウトサイド・ジャパン展」を開催したときには、物販コーナーでは小林さん作の下駄を販売していたにも関わらず、無償で会場に展示してあった下駄を配りまわっていた。またあるときは、「小林さんに絵を描いてほしい」という人からの依頼を伝えたところ、依頼者の家の中だけじゃなく外壁にまで描いてトラブルにもなることもあった。
何より一番の思い出は、2017年4月18日の夕刻に広島県福山市で運営していたアートスペース「クシノテラス」に突然訪問してくれたことだ。「いつか行きたいな」、会うたびにそんな台詞を呟いていたが、なにしろ当時77歳。きっと社交辞令だろうと思っていた。ところが、小林さんは僕に会えるかどうかもわからないのに始発電車に飛び乗り、13時間もかけて電車を乗り継いで会いに来てくれた。持参したシルバーカートに入っていたのは、僕に渡すお土産だけ。通勤ラッシュで壊れてしまった眼鏡をセロハンテープで直すと「日帰りだから、もう帰んなきゃ。帰れなかったらどっかの駅で寝るからいいよ」と、そそくさと戻って行った。こんな人には絶対敵わない。
本当にお世話になりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。