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櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:自分が自分であるために

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載。第45回は、障害者団体で働きながら絵を描き続ける奥村ユズルさんを紹介する。

文=櫛野展正

奥村ユズルさん

 ヨーロッパやアジア、南北アメリカを中心に世界50カ国以上を旅しては、旅先で得たイメージをヒントに絵を描き続けている男性がいる。それが、「旅する画家」を自称する奥村ユズルさんだ。静岡市在住の奥村さんは、独学で絵を描き始め、パレットは使わず、イラストレーションボードにチューブから直接絵の具を塗っていくという技法で、これまで1000点を超える作品を制作している。

 奥村さんは、1961年に岐阜県多治見市で、3人兄弟の長男として生まれた。奥村さんいわく、小さい頃は真面目で面白みのない子供だったという。父親が趣味で退職後に日本画を描いていたこともあり、小さい頃から絵を描くことが好きだった。しかし、本格的に絵の道を志そうという気持ちはなく、高校卒業後は静岡大学人文学部法律学科へ入学し、静岡で過ごした。大学へ入学してすぐ、「下宿先の暇を紛らわすために」と独学で始めたのが、油彩画を描くことだった。本を見ながら見様見真似で描き始め、写実を追求して人物画を描くようになった。下宿先の部屋には油絵の具の匂いが充満し、高価な画材に費用はかさんでいった。それでも描き続けた理由を奥村さんは、「自分の表現手段を探していたのかも知れないですね」と振り返る。大学4年生のときには、溜まってきた作品を公開するため、静岡県藤枝市内のギャラリーで個展を開催した。何度か公募展に挑戦したこともあったが、賞を貰うことはできなかったようだ。

制作中の奥村さん

 そして絵を描き始めると同時に始まったのが、障害のある人との関わりだ。退屈だった大学の授業から抜け出して自分の居場所を探していた奥村さんは、みずから社会福祉協議会を訪ね、大学2年生のときから障害のある人たちの自立生活を応援する「静岡障害者自立生活センター」へ足を運ぶようになった。

 「その頃、まだ障害のある人には、可愛そうで助けが必要な存在というイメージがありました。でも実際に関わってみると、障害のある人たちは世間一般のレールから外れてはいるけれど、生きるエネルギーに満ちあふれていたんです。そうした姿に触発されたんですよね」。

 4年間のうちに大学を卒業することはできなかったが、熊本で水俣病患者の人たちと共同生活を送りながら1年間有機農業の体験をするなど、奥村さんは、ますます障害のある人たちとの関わりにのめり込んでいったようだ。

奥村さんの画材

 「静岡に戻ってきて、障害者団体の事務所へ転がり込んでアルバイトとして働いていたときに、『インドへ行くと人生が変わる』という話を聞いて大学を卒業する3ヶ月前にインドを放浪することにしたんです。インドでは、生と死や美しいものと汚いもの、そうしたものすべてをひっくるめて、この世界が成り立っていることを知りました。その後も、世界各国を旅しましたが、あのときインドで見た光景は忘れられない思い出となりました。でも、インドで赤痢になって、帰国後1ヶ月ほど隔離されちゃったんですよね」。

 大学を卒業したあとは、障害者の活動で知り合った人の紹介で会計事務所に就職したが、肌に合わず2年ほどで退職。再び海外を放浪したあと、帰国してはアルバイトをして障害者の団体に関わるという生活を5年ほど続けたようだ。それまでアジア諸国を中心に一人旅を続けていたが、シュタイナー教育の思想に基づいた共同体がイギリスにあることを知り、29歳のときに初めてヨーロッパへ行くことを決意した。アルバイトを辞めてアパートも引き払い、シベリア鉄道で陸路を横断し、1ヶ月かけてフランスのマルセイユまで到着した。パリでは美術館巡りをしたり、アイルランドでは語学を学ぶために2ヶ月ホームステイをして英語学校へ通ったりするなどして、3〜4ヶ月ほどヨーロッパを周遊したようだ。

 イギリスでは知的障害の人が大半のコミュニティで共同生活を送り、主に農作業に従事した。9ヶ月ほど過ごしたあとは、インドネシアの芸術村として知られるバリ島のウブドへ1ヶ月ほど滞在し、その後に帰国。日本へ戻ってからは、それまでボランティアとして携わっていた障害者団体へ1991年から就職し、現在に至るというわけだ。

 「イギリスへ行ってからヨーロッパの思い出や美しい街並みを描きたいと思うようになり、施設へ勤め始めた頃から油彩画での写実表現をやめて、自分にしか描けないスタイルを追求して、水彩やアクリル画で明るいタッチの絵を描くようになりました」。

丘の上の教会の結婚式

 小さな個展を開催したとき、静岡市内にある画廊を併設した書店のスタッフが絵を観に来てくれたことがきっかけで、国内外の美術館やギャラリーから声がかかるようになった。公募展で賞を獲った経験があるわけでもなく、当時はまだ誰にも知られていなかった奥村さんを、いち早く見出したこのスタッフの先見の明には頭が下がる思いだ。

 奥村さんの絵で特徴的なのは、画面の中に杖をついたお年寄りや車椅子に乗った障害のある人、ベビーカーを押しているお母さんなど、多様な属性の人たちが描かれていることだ。福祉の世界へ長く身を置く奥村さんにとって、さまざまな個性を持つ人をそのまま社会の中に包摂する「ソーシャル・インクルージョン」の原理を具現化したものが、自身が描く絵となっている。

 奥村さんが携わる福祉の仕事は、夜勤業務もあり過酷な仕事だが、それでも絵を描き続ける理由を「職場では評価されて、いまでは理事や総務部の責任者になったけど、結局のところ、他の人でも代わりはきく仕事なんです。そうした昼間の仕事では埋められない部分があって、『自分にしかできない絵を描き、自分の生きた証を残したい』という欲求があるんです」と教えてくれた。

制作の様子

 子供が生まれたときは絵を描く時間がなくなってしまうときもあったが、制作時間を確保するために生活リズムを一新。21時頃には床に就き、家族が寝静まった深夜0時に起床し、翌朝3時まで制作へ没頭する。その後、再び入眠して朝6時に起きるという生活を10年以上続けている。結婚して子供を授かったり仕事が軌道に乗ったりしてくると、絵を描いているよりも楽しい瞬間はあったが、それでも奥村さんはあえて絵を描く時間を確保しているようだ。

 「風呂へ入ったり歯を磨いたりするような感覚で、深夜0時になったら必ず筆を握るようにしているんです。昼間は人と関わって利害を調整するような仕事なので、どこかで疲弊している部分があるんですよ。だから、絵を描くことで心身のバランスを取っているんでしょうね」。

 そう話す奥村さんは、「きれいな絵だけでは満足できない部分があって、自分の中にあるどろどろした部分を吐き出したい」と2年ほど前から奇妙な人形の制作を始めた。それは、長年絵筆を握って描き続けた結果として生み出すことができた表現なのだろう。

2年ほど前から制作を始めた人形作品

 人には誰でも二面性がある。それはアーティストと呼ばれる人だって同様だ。人目に触れる作品をつくるいっぽうで、自分のためだけに制作する表現だってある。だから、明るい雰囲気の絵画だけでなく奇妙な人形の創作は、どちらも奥村さんにとって自分だけの表現なのだろう。そして、「アートのB面」とでもいうべき作品に、いつも僕はどうしようもなく魅了されてしまう。自分が自分であるために、ただつくり続ける。これ以上、制作するための原初的な動機はないはずだ。

奥村ユズルさん

編集部

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