連載:庄司朝美「トビリシより愛を込めて」第8回「50grains of pomegranate」

2月末から海外研修先として、黒海とカスピ海のあいだにある小国・ジョージアに滞在している画家の庄司朝美。渡航直前の2月24日、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が開始された。隣国ともいえるウクライナの情勢を身近に感じながら、独自の文化を育んできたジョージアの首都トビリシからお届けする連載。ワインづくりに向かう10月、ジョージアは特別な月を迎える。

文=庄司朝美

01.
前へ
次へ

 前歯がグラグラしている気がする。
 鏡をのぞいて、前歯をそっと指で押したり引いたりして確かめてみる。
 子供の頃に欠いてしまって、セラミック製の差し歯にしたところがなんだか心許ない。数日前にツワディという串焼きの豚肉にかぶりついて、肉を引きちぎって食べたのが良くなかったのかもしれない。ふと、鏡に映った私の目と目が合う。前歯を検分していたのと同じ集中力でその顔を見やると、やたらと目つきの鋭いゴツゴツした顔がそこにあった。こうであろうと思っていた自分の顔とはなんだか違う。

 朝の散歩道、いつもの大きな公園を出て道路を渡ろうと、車の流れが途切れるのを待っていた。5メートルほど離れた場所で、迷彩服を着たおじさんが野良犬に朝ごはんをあげている。風体に人を威嚇するような雰囲気があって身構えていたけれど、近づいてきたので挨拶をした。おじさんは腹の底から響く声で挨拶を返すと、トビの気を引こうとその大きな体を揺らしてはしゃいで見せる。トビが目をそらして退屈そうな顔をするのにも構わず、分厚い手で怯えるトビを捕らえようとさらに近づいてきた。それから私たちのアジア人顔に目を留めると、矢継ぎ早に質問をしてきた。

―どこから来たんだ?
 ―იაპონიიდან.
―住んでいるのか?
 ―ჩვენ ვცხოვრობთ თბილისი ნახევარი წელი.
―仕事はしているのか?
 ―ჩვენ მხატვრები ვართ.

 幾度となく投げかけられたお馴染みの質問には、台詞を読むように淀むことなく答えることができる。母語ではない言語を使って、言葉が言葉として意識されることなく、相手の呼吸を読みながら会話が成立する瞬間は爽快だ。
 名前を尋ねるとGiorgiだと答えた。加えてさらに宗教はなんだと聞き返えされる。少し考えてから仏教徒だと答えた。すると呆れたような顔をして、正教はいいぞ、仏教なんかやめて改宗したら良いとオススメされる。ずいぶんとカジュアルな布教をするもんだなと驚くと同時に、都合上仏教徒ではあるけれど、そんなふうに言われるとどこかプライベートな一部分を否定されたような気持ちになる。何かを信じるということは心の深いところで起こる運動で、知覚されない感情の流れがあるのかもしれない。それから会話は宗教から家族、生活の話へと移っていく。宗教から先の話にはもう台本はないし、そもそも相手が言わんとしていることを想像して、言葉と言葉のあいだをそれで埋めていくことは、言語の問題ではないだろう。知っている限りのジョージア語を並べて、私という人間について説明をする。言い切ることのできないはずの感情や状態についても、言語の不自由さから言い切ってしまう。嘘ではないけれども、雑にまとめられた私。そんなことを繰り返しているうちに、顔つきまで変わってきてしまったのかだろうか。

02.

 上手くはない英語と幼児のようなジョージア語に引きずられて、日本語まで不器用になってくると、言語によって私という人間がいかに規定されていたのかに気が付く。言葉には自分自身に向かう内省的な使い道と、他の人間と関係していくための用途がある。思考と会話とで別の言語を使っていると、ふたつの噛み合わせが悪くなってくる。そのせいで頬の内側を噛んで口内炎ができるように、何かぎこちない。あるいは、言葉の表面張力みたいなものが私をかたちづくっていたのかもしれない。その張力が緩んで徐々に私の表面積が広がってきているようにも感じる。

 ちょうどそんなことを考えながら作品をつくっていた。11月17日からの、京都にあるアーティストランスペースのsodaにて開催するグループ展のためだ。
 その展覧会は「50秒」と題されたsodaの田中和人さんの企画で、34作家がそれぞれ50秒の映像作品を出品する(*1)。私は卓上に規則正しく並べられた50粒の石榴を、1粒ずつジョージア語で数えながら潰していくという映像を撮った。結局、50秒で50までを数えることができない。一語一語噛み締めるように発声するからだ。指で潰す感触とともに数字が記憶に刷り込まれていく。飛び散った果汁を掃除してはテイクを重ねていった。壁に染み付いた果汁は時間が経つにつれ紫色に変わって、漂白しても落ちない。数字もそんなふうに記憶されれば良いのにと思う。

03.

 Giorgiの話はワインへと移る。
 国を挙げてワインづくりに向かう10月は、ジョージアにとって特別な月である。

―ジョージアのワインは美味いか?
 ―ძალიან გემრიელი!

と答えると、誇らしそうな顔をした。ジョージアはワインづくりにかけて8000年の歴史を持つ。クヴェヴリという素焼きの甕を土中に埋め、その中で葡萄の絞り汁とともに種や皮、茎も一緒に熟成させる世界最古の製法で味わい深いワインをつくり続けている。

 機会があって、葡萄の収穫とワインづくりの工程に立ち合えることになった。
 しばらく降り続いた雨が上がり、青く高く晴れ渡った空と黄色く色づいた木々の対比が美しい。そんな日、友人の外園さんに連れられてトビリシ郊外のGelaさんの家に向かった。ジョージアの多くの家庭では自家製のワインをつくっている。庭木の葡萄を収穫して圧搾機で潰し、種や皮、茎も一緒に樽に詰めてマラニ(貯蔵庫)で熟成させる。それだけ。家庭用だからなのか、もいだ葡萄は洗わずカビが生えていてもお構いなし。一粒残さず収穫され、樽へと詰められた。作業の合間に、ほんの3週間前に仕込んだばかりのワインを飲む。外園さん曰く、去年仕込んだ分はもう飲みきってしまって、熟成を待たずに開封したのではないかと。まだ淡い色のそれは、美味しいのかよくわからない。けれど、飲み干すとすぐに次の一杯が欲しくなるので体に合っていたのだと思う。収穫を終えると、葡萄の汁で指先が真っ黒になっていた。

 夕暮れが迫ってくると、近所の人も集まってきてスープラ(宴会)の準備が始まった。薪で火を起こし、葡萄の枝をくべてそれが熾火になったところでツワディを焼く。日が落ちると晩秋の夜は冷たく息は白い。全員で身を寄せ合ってテーブルに着くと、それから盛大に飲み食いをした。合間合間にタマダ(*1)が家族や友情、神様について演説し、そのたびに乾杯して杯を干す。そんな彼らにとって、ワインはたんなる飲みものや楽しむものではなくて、自然や人生のサイクルと結びついているものだと思う。それは血液のように生活のなかに流れめぐっているものなのだ。

04.

 ワインから料理へとGiorgiの話は切れ目なく話は続く。お腹も空いてきたし、トビは退屈で鼻を鳴らし始めたので、そろそろ帰りたい。道路を流れる車列を眺めながら、一歩を踏み出せるように少しずつ軸足へと重心を移していく。車の切れ目を狙って道路に踏み出すと、振り返りざま腹の底から

―კარგათ ნახვამდის!

と手を振る。つられてGiorgiもその分厚い手を上げた。


*1――「50秒」展(2022年11月17日〜20日、soda、京都)
https://www.sodakyoto.com/
*2――スープラ(宴会)の仕切り役で、演説とともに乾杯の音頭をとる人物。

01. 庄司朝美「Daily Drawing」より 2022 窓に油彩
02. ジョージア北西部ニコルツミンダに位置する、ジョージア正教会のニコルツミンダ大聖堂。美しい石のレリーフと壁画が残る。
03. 庄司朝美 50grains of pomegranate 2022 ビデオ 50秒
04. Gelaさんの葡萄
撮影=筆者