連載:庄司朝美「トビリシより愛を込めて」第2回「春の訪れ」

2月末から海外研修先として、黒海とカスピ海のあいだにある小国・ジョージアに滞在している画家の庄司朝美。渡航直前の2月24日、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が開始された。隣国ともいえるウクライナの情勢を身近に感じながら、独自の文化を育んできたジョージアの首都トビリシからお届けする連載。トビリシにもようやく春の気配が。

文=庄司朝美

庄司朝美「Daily Drawing」より、2022年、バルコニーの窓に油彩 撮影=筆者
前へ
次へ

 ようやく冬が明けた。茶色くて埃っぽかった街に色が戻ってきたようだ。桜やアーモンド、レンギョウ、名前の分からない花がそこかしこで咲いている。カサカサして硬くなった葡萄の木は葉が開いて木漏れ日をつくるようになった。そして何よりも人が増えてきた。冬の間はどこにいたのだろうかというくらいに。ここでは面白いほどに人間と季節が結びついている。冬の間は閉まっていた店が、草花が芽吹くように扉を開いて色とりどりの品物を見せるようになった。市場街を歩けば、足元から急に生えてきたみたいに大きな鷲鼻の顔がニュッと出てきてギョッとする。よく見ると、そこは半地下の漬物屋だった。思いがけないところに小さな店がひしめいている。

本や古い絵葉書がうず高く積まれ、彫刻と化していた古本屋。絵葉書の裏には誰かが誰かに宛てて書いた文章が残っていた 撮影=筆者

 借家のバルコニーに隣り合って建っている、打ち捨てられたようなビルも工事が始まった。それで壊しているのではなくて造っている途中だということが知れる。冬の間、がらんどうで構造だけの冷たいコンクリートの間を風が吹き抜けていく様子は、見ているだけで寒々とした景色だった。巨大なビルだというのに、2、3人の労働者が1日作業して2日は姿を見せないようなペースだ。一つひとつブロックを積み、壁にセメントを塗り、相変わらず何もかも灰色だけど少しだけビルの形が変わっていく。

市場の中に草花の露店が並ぶ。花を手に歩いている人をよく見かける 撮影=筆者

 陽気のせいか、知人を介して少しずつ友だちができたせいか、人の集まりに出かけるようになった。

 この季節、1年のうちでもっとも大切な行事だという東方正教会の復活祭(イースター)がある。毎年その日にちは変わるのだけど、今年は4月24日が当日だそうで、3月の末ごろから街中で復活祭のための準備が始まった。

 復活祭までの40日間は、聖書にあるキリストの受難と死、そして復活を、各行事や慣習のなかで擬似的に体験するような日程が組まれている。それはまるで生活自体を演劇化するようなふるまいだ。時も場所も超えた物語を、それぞれの生活のなかに迎え入れることで多層的な世界を生きる。そもそも宗教自体がとても演劇的であるのだけど、人々の生活のなかに宗教が息づいている地に身を置いてみると、改めてそのように実感される。

Tamar Nadiradzeの作品。左は、《Empty Feast》(2021 紙に水彩、コラージュ 197×210cm)。右上は、《Deers》、右下は《The piece of eternity》(ともに、2022 水彩、セラミック 28×32cm)撮影=筆者

 近頃知り合った画家のTamarは、その作品から想像したように、たおやかだけれども芯が強くてウィットに富んだ女性である。彼女に誘われて、「チアココノバ」という復活祭直前の水曜日に行われる、ジョージア伝統の行事に参加した。それはキリスト教以前の異教の信仰に由来し、焚き火を飛び越えることで悪いものを払う浄化の儀式だそうだ。日本ではお盆に迎え火、送り火を焚くけれど、ジョージアでもかつては各家庭の庭先でやるものだったという。

 開催場所は非営利団体の運営するゼミのような形態の芸術学校であり、ギャラリーでもあるCCA-Tbilisiの中庭。廃墟をうまく改装して仕立てられたギャラリーでは、展覧会が開かれていて、たくさんの人が集まっていた。ふたつある出入り口を子供たちが交互に出たり入ったりぐるぐる駆け回り、夜の冷たい空気を攪拌している。それに誰かの犬が加わってじゃれついていた。

CCA-Tbilisiでの展覧会風景 撮影=筆者

 焚き火の仄明かりに照らされた中庭は、夜が更けるにしたがって人が増えてきた。そこで作家や美術関係の人たちからなぜこの国に来たのか、と問われる。それもどちらかというとなぜ“こんな”国に?という顔で。そのたびにここは日本とはまるで正反対の国だから惹かれるのだと説明する。日本は島国で土地伝いに他国と国境を接していないこと、200年もの鎖国の期間があって、ガラパゴス的に発展した独自の文化があること。しかしこれからのことを考えると、日本はすでに成長しきって年老いて死にゆく過程のなかにあるような気がする、と。対してジョージアは様々な文化圏に国境を接し、その困難な歴史のなかで文化の断絶と移植を繰り返し経験している。未来について言えば、ジョージアは近代国家としては若い国であって、だからこそこれから発展していく躍動感があるのだ、と。そうしたらTamarは「本当にそう思う?……私はそうは思わない」と少し寂しそうに微笑んでいた。彼女は私と同世代だと思うけど、ソヴィエト独立前後の貧しい時代に生まれ、電気も、燃料も、食べ物すらないときに子供時代を過ごしたという。内戦やロシアからの侵攻による混乱も、その目で見てきた人だ。大きな悲劇とともに育ち、いまだに街を見渡せばそこかしこに廃墟が残り、時に停電や断水が起こる。そこにきて今回のウクライナ侵攻は、過去の悲劇を思い出さずにはいられない出来事だろう。この国の未来に期待することは、そう簡単なことではないはずだ。

 夜が深まるにつれて増してきた空気の冷たさに震える。子供たちが順に火の上を飛び越えるのを眺めながら、そんな話をしていた。

 ふと、先月末に会ったキエフから来たジャーナリストのFさんのことを思う。トビリシには3日間だけの滞在で、ウクライナの家族のもとへまた戻るという。待ち合わせたホテルのカフェに着くと、長身のFさんが歩いてきてハグを交わした。一度しか会ったことはなかったけど、それでもずいぶん痩せたように思えた。席について、笑顔で挨拶をして、「キエフから来たのですか?」と聞いた途端、グッと体に緊張が走って顔つきが変わる。そこから堰を切ったように話し始めた。大きな窓から淡い光が差し込む洗練されたカフェで、洒落た服に身を包んだ人々がゆったりくつろいでいる。クッションの効いた皮張りのソファにもたれて談笑する人々のなか、Fさんの放つ動物的な緊張感はまるで馴染まない。帰り際、Fさんの背中が遠くなっていくのを目で追いながら、たったいま、私は死ぬかもしれない地に赴く人を見送ったことに愕然とする。もっとしっかり抱きしめておきたかったと思った。

 あれからひと月、欧米メディアの報道のトーンが変わってきている。戦争が常態化しつつあることで、いまや戦争が政治的駆け引きの場になっていることを隠そうともしなくなったようだ。

チアココノバの様子。いまではあまり見かけなくなった光景だという 撮影=田沼利規

 借家の東側の窓からは隣家の庭が見下ろせる。冬の間はその庭の中を巨大な毛むくじゃらの犬がうろうろしていた。太り過ぎで背中が平たくて、動きはとても緩慢だった。ぼんやり空を眺めたり、窓越しにもどすんと聞こえてきそうな寝返りをうったり、見飽きることのない光景だった。けれど、春の訪れとともにだんだんその姿を目にすることがなくなった。死んでしまったのだろうか。この国は至るところに野良犬がいる。皆よく可愛がられているせいか人懐こくて、くつろいだ様子だ。鼻先をかすめて車がかっ飛ばしていく道路でも満足げに熟睡していて、夢を見ているのか時おり手足が宙をかいている。そんな国だから、春先はどこからともなく子犬が姿を現す。それで、つい子犬を拾ってしまった。