連載:庄司朝美「トビリシより愛を込めて」第6回「コンパスを失くして」

2月末から海外研修先として、黒海とカスピ海のあいだにある小国・ジョージアに滞在している画家の庄司朝美。渡航直前の2月24日、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が開始された。隣国ともいえるウクライナの情勢を身近に感じながら、独自の文化を育んできたジョージアの首都トビリシからお届けする連載。トビリシに来て半年ほどが経った。

文=庄司朝美

1.
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 8月になると、強い日差しと乾燥した大気のために、緑地の多くは枯れきって黄土色になった。高台から望むトビリシの街は、中東のどこかの都市にも見える。痛いほどの陽射しに、あちこち地面をほっくり返して工事をしているせいで空気は埃っぽく、ますますベイルートやアンマンみたいな都市を思い出す。近所の大きな公園では、朝に夕にスプリンクラーが稼働していて、近頃は雨が一滴も降らないにもかかわらず、芝は青々と、木々は勢いよく葉をつけて木陰をつくっている。スプリンクラーはあらぬ方向にまで水を撒いていて、この夏、世界中で深刻な水不足が報道されるなか、トビリシでは水が無限の資源かのようだ。公園だけではなく、街でも延々と水を撒き続ける人の姿をしばしば見かける。

2.

 朝と夕、ぐいぐいと力強くリードを引くようになったトビを走らせに公園へ行く。早朝はロシアやアメリカから来た外国人が、朝も遅くなるとジョージア人がゆったりと現れる。毎日通ううちに、公園で行きあう人たちと犬を遊ばせながら立ち話をするのが日課になった。この国で日本人はニュートラルな存在だ。ジョージアにとっては遠い国の、まったく違う文脈にある存在だからだろう。だからこそ、聞かせてくれる話もある。

 あるとき、ウクライナ人とロシア人を両親に持つ人に出会った。身の上話が始まると、その複雑な境遇に顔を歪ませて会話はパタリと止まってしまう。それからまた当たり障りのない話が再開されたのだけれど、つまずいた会話のあいだに挟まっているものを想像することが難しくなっているのに気がついた。侵攻が始まって半年もの時間が経っている。Fさんに電話をかけた。
 Fさんは現在、ウクライナを拠点に取材を続けるジャーナリストである。次第に報道が少なくなるなか、実際の状況を聞きたかった。1時間半の電話のあいだ、声は途切れることも荒れることもなかった。少し意外に思って尋ねると、通信環境はかなり早くから整えられ、民間の努力もあって守られているそうだ。加えてキエフ(キーウ)は対空ミサイルが配備され、空爆はほとんど防ぐことができている。前線の兵士として国を守る人、戦闘のない地域で日常生活を送る人。自分の命を捧げて戦う人たちが、安全な地域で暮らす人々に抱くもどかしさ。そのいっぽうで、戦いに参加できない人々は負い目を。いかにウクライナのために役割を果たすか、ということがいまや国民のアイデンティティになっている。キエフ(キーウ)の夜の静寂を背景に、それぞれの立場からどうにかしてウクライナのために生きようとする人々の切実な姿を、熱を帯びた声で語る。時にユーモアを交えて。シリアスな会話だったはずなのに、電話を切った後も口元に笑みが残っていた。

3.

 先月、仲の良いアーティストがトビリシを去ってしまった。その穏やかな笑顔と、柔らかい声がもう聞けないのかと思うと、異国でようやくつくり上げた日常のキワみたいなものが、脆くも崩れてしまったように感じる。そんな折、トビリシに長らく住む友人の外薗さんとキャンプに行こうという話になった。アゼルバイジャンとの国境にまたがって点在する修道院と、その遺構に描かれている壁画を目的に荒野を車で駆け巡る予定だ。
 行き先の東部カヘティ地方はワインの大生産地で、水源の少ない乾燥地である。ワイン用の葡萄畑が続く道から折れて南下するにしたがって、砂漠地帯へと景色が移っていった。トビリシから60キロほどしか離れていないのだけど、見慣れぬ砂漠の光景に体感が追いつかなくて、自分の現在地がつかめなくなる。塩湖やぽつねんと佇む誰かのお墓、水場があったのだろうか唐突に緑が茂る枯れたオアシス、広大なひまわり畑。所々で出くわす人の痕跡に、こんなにも枯れた大地で人々はどのように生きているのだろうかと考える。目を凝らして荒野を見つめていると、次第に景色が身体に馴染んできた。

4.

 道なき道をひた走るうちに、ガソリンが心許なくなってきた。給油場所を探して行き着いた小さな村で、スヴァネティ帽を被った人に聞いてみる。どうやらその村にガソリンスタンドはないそうだ。それから2、300メートルほど先まで車で送ってくれというので、指示通りに凸凹道を走る。結局1キロほど行くと、そこは丘の上の教会だった。人々が続々と集まってきていて、曰く、その日はグルジア正教会の聖人ギオルギのお祭りがあるという。居合わせた村人たちが祭りに誘ってくれた。
 教会にはコシュキ(*1)と呼ばれる、遠く離れた北西部スヴァネティ地方で見かける独特の塔があった。アゼルバイジャンとの国境に近いその場所にあるのが不思議で、後日、博識のTamarさんに尋ねてみると、18世紀のある豪雪の年、避難民としてやってきたスヴァン人が興した村のひとつだろうという。勇猛で知られるスヴァン人の特性から、時の政府が国境近くに守備も兼ねて避難先を決めたとの話だった。スヴァン人はもともと山間に暮らす先住民族のひとつで、ジョージア語とも違う独自の言語を持つ。また国教であるグルジア正教徒ではあるが、古い異教の名残も残っていて、ジョージアのなかでも特異な地域である。
 招かれるままに教会の敷地へ入ると、あちこちの乗用車のトランクから羊が転がり出てきた。羊は次々と聖堂へと連れて行かれ、中では男たちが怒号のような祈りを捧げている。祈りとは静寂のなかで行うものだと思っていたけれど、それはまるでこれから戦いにでも行くような荒々しい独特の祈りだった。女は中に入れないので、外で待っている。
 教会の裏手では、祈りの済んだ羊が次々と屠られていく。目が眩むような陽光の下、体格の良い男たちがその体のわりに小さなナイフで器用に解体していた。晴れ着に新品の靴を履いているにもかかわらず、一滴の血の染みもついていない。
 若い男が胸ポケットから良い匂いの葉っぱを出して少し分けてくれる。宴会にも誘ってくれたけれど、乾杯ごとに杯を干して大量のワインを飲み続けるジョージア式の宴会、スープラに参加するには覚悟が足らず、まずはガソリンを探すために教会を後にした。

5.

 すぐ隣にはアゼルバイジャン系の住民の町があった。家の装飾も人々の顔立ちも、使われる言葉も違っている。妙に安いガソリンを入れて村の南端まで行くと、そこはもう国境だった。現在、陸路でジョージアからアゼルバイジャンに入ることはできない。けれど、かつては行き来ができたのだろう、検問所ゲートの近くには両替屋があった。国境を隔てる柵のすぐ向こう側には、その村の続きのような家々が連なっている。ふと、羊肉の脂の甘い臭いがして、柵沿いのゴミ箱を覗くと、剥ぎ取られた2頭分の羊皮が捨てられていた。ここでも何かのお祝いがあったのだろうか。
 国境警察が私たちの姿を認めて面倒くさそうにやってくる。おざなりの質問はまるで緊張感がなかった。町の中心に戻って、路上のスイカ売りからひと玉買う。熱気で温められたその大きなスイカは何かの生き物のようだった。

6.

*1─復讐の塔とも呼ばれる。外敵から身を守るための見張りや、長期の篭城ができるシェルターとしての役割がある。スヴァネティの古い風習では、村の掟を破ったものは本人のみならず家族も罰せられる。その制裁は復讐の連鎖を招き、村人同士で殺し合う抗争に。お互いを監視し合うための塔として発展した。

[写真キャプション]
01:庄司朝美「Daily Drawing」より、2022年、窓に油彩
02:トビリシの中心街からほど近いムタツミンダ(聖なる山)から望む
03:ケーブルテレビのウクライナ放送局「Ukraina24」はしばらく前から放送が途絶えている
04:動く石のようなリクガメ。近づくと甲羅に篭ってしまった。ほかにもハリネズミが生息しているそうだ
05:ジョージア北西部、上スヴァネティにあるウシュグリ村の様子。奥に復讐の塔が見える。何百年も前に時が止まってしまったかのような場所だった
06:アゼルバイジャン系住民の町で買った特大のスイカ