長谷川新 年間月評第10回 「集団_展示」展 再生産と生殖―インスタレーション以後の彫刻
「集団_展示」展は、京都市立芸術大学大学院彫刻専攻11名によるグループ展である。本展は展覧会設計の段階で外部のメディエイターが複数名招聘されており、そうした側面について深く掘り下げて論じることも可能だ。しかしここでは、展覧会が二会場に分かれており、それぞれはっきりと傾向が異なる彫刻が展示されていたという点に着目したい。
かなり強引に整理するならば、コーポ北加賀屋で展示された作家は、多重レイヤー構造化とその同時解析にもかかわらず/それゆえの、物質の偏愛という特徴を有していた。少し俯瞰すると、この動向は例えば上田良、加納俊輔、迫鉄平による「THE COPY TRAVELERS」の活動と比較することでより諒解されるだろう。もういっぽうの会場である千鳥文化B棟に展示した作家たちは、セクシュアリティおよび有機的なものへの、より直接的な交渉を模索していた。展覧会近傍では金氏徹平の作品がちょうど一般公開されており、マンガのスクリーントーンのシリーズや、フィギュアや玩具に白い液体を垂らしたシリーズが展示されている。ここに安易な造形の系譜(中原浩大やそれ以前までを含む)を見出すことはそれほど難しくはないだろうが、「集団_展示」の実践をそうしたローカルな議論のみに収斂させることは筆者の欲するところではない。筆者もまた、蛮勇を振るわねばならない。この二会場の分裂を、私たちはそのまま「インスタレーション以後の彫刻」の問題であると素直に受け取るべきなのだ。そうした視座のもとでは、『無機的なもののセックス・アピール』でのマリオ・ペルニオーラの語彙を借り、「再生産」と「生殖」の問題系へと接続できる。どちらも「reproduction」であるが、両者はここではっきりと区別されている。
ペルニオーラはインスタレーションを、作品がモノ(=無機的実体)へと変容する唯一の場であると診断している。逆に言えばそこには、
したがって「集団_展示」における対比は決して一時的でも偶然でもない、必然的な帰結である。というわけで、筆者から彼らへの「なぞなぞ」はこうなる。有機的な作品と無機的な(inorganic)インスタレーションに対して、「脱─有機的な(disorganic)彫刻」はな〜んだ、と。
(『美術手帖』2018年1月号「REVIEWS 09」より)