SERIES / 長谷川新連載 - 2017.12.24

「reproduction」をキーワードに彫刻を考える。長谷川新が見た「集団_展示」展

2017年11月にコーポ北加賀屋と千鳥文化B棟で、京都市立芸術大学大学院彫刻専攻の学生11名による展覧会「集団_展示」が開催された。「集団」としての展示や作家性を問う本展を、イタリア人哲学者マリオ・ペルニオーラの思想とともに振り返る。

文=長谷川新

小林椋 椅子うどん粘土うすい 2017 ディスプレイ、映像、リズムボックス、モーター、木材 撮影=守屋友樹

小林椋 椅子うどん粘土うすい 2017 ディスプレイ、映像、リズムボックス、モーター、木材 撮影=守屋友樹

長谷川新 年間月評第10回 「集団_展示」展 再生産と生殖―インスタレーション以後の彫刻

 「集団_展示」展は、京都市立芸術大学大学院彫刻専攻11名によるグループ展である。本展は展覧会設計の段階で外部のメディエイターが複数名招聘されており、そうした側面について深く掘り下げて論じることも可能だ。しかしここでは、展覧会が二会場に分かれており、それぞれはっきりと傾向が異なる彫刻が展示されていたという点に着目したい。

写真手前は、川瀬鮎美《live in hate,live in shame,I don't care.》( 2017)。写真左は、川瀬鮎美《Feng》( 2017) 撮影=守屋友樹

 かなり強引に整理するならば、コーポ北加賀屋で展示された作家は、多重レイヤー構造化とその同時解析にもかかわらず/それゆえの、物質の偏愛という特徴を有していた。少し俯瞰すると、この動向は例えば上田良、加納俊輔、迫鉄平による「THE COPY TRAVELERS」の活動と比較することでより諒解されるだろう。もういっぽうの会場である千鳥文化B棟に展示した作家たちは、セクシュアリティおよび有機的なものへの、より直接的な交渉を模索していた。展覧会近傍では金氏徹平の作品がちょうど一般公開されており、マンガのスクリーントーンのシリーズや、フィギュアや玩具に白い液体を垂らしたシリーズが展示されている。ここに安易な造形の系譜(中原浩大やそれ以前までを含む)を見出すことはそれほど難しくはないだろうが、「集団_展示」の実践をそうしたローカルな議論のみに収斂させることは筆者の欲するところではない。筆者もまた、蛮勇を振るわねばならない。この二会場の分裂を、私たちはそのまま「インスタレーション以後の彫刻」の問題であると素直に受け取るべきなのだ。そうした視座のもとでは、『無機的なもののセックス・アピール』でのマリオ・ペルニオーラの語彙を借り、「再生産」と「生殖」の問題系へと接続できる。どちらも「reproduction」であるが、両者はここではっきりと区別されている。

湯本祐生 Raw Sculpture 2017 人体、ウレタン 撮影=湯本祐生

 ペルニオーラはインスタレーションを、作品がモノ(=無機的実体)へと変容する唯一の場であると診断している。逆に言えばそこには、作品が元来ある種の有機体である・・・・・・・・・・・・・・・という前提がある。「こうした美学的な有機体論の起源にはおそらく、絵画や彫刻において人物表現が支配的な位置を占めてきたという事情があるのだが、にもかかわらずこのような有機体論が、抽象主義によっても何ら損なわれていない」ことを彼は強調する。インスタレーションは無機的であるがゆえのセクシーさを湛える。鑑賞者はインスタレーションに没入し、貫かれ、己を差し出すほかなく、作品を見る側から窃視される側へと逆転する。インスタレーションは外在性そのものとなり、際限のない足し算によって繁殖─再生産する。そこでは有機的なセクシュアリティ(生殖)は放逐されている。こうしてインスタレーション以後、「再生産」と「生殖」は分離するのである。

 したがって「集団_展示」における対比は決して一時的でも偶然でもない、必然的な帰結である。というわけで、筆者から彼らへの「なぞなぞ」はこうなる。有機的な作品と無機的な(inorganic)インスタレーションに対して、「脱─有機的な(disorganic)彫刻」はな〜んだ、と。

展示風景 撮影=呉屋直

 (『美術手帖』2018年1月号「REVIEWS 09」より)