金澤韻連載「中国現代美術館のいま」:中国現代美術の重要コレクターが遺したレガシー──「ユズ・ミュージアム」

経済発展を背景に、中国では毎年新しい美術館・博物館が続々と開館し、ある種珍異な光景を見せている。本連載では、そんな中国の美術館生態系の実態を上海在住のキュレーター・金澤韻が案内。第5回は、2014年に開館した「ユズ・ミュージアム」をお届けする。

文=金澤韻 All images courtesy of Yuz Museum

ユズ・ミュージアムの外観
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 2022年3月、「ユズ・ミュージアム」(以下「ユズ」)の創設者、ブディ・テックが65歳でこの世を去った。ユズが2014年に開館したその翌年、2015年に、彼はすい臓がんの診断を受けた。その後の6年間、闘病と並行して、自身が築いた1500点におよぶコレクションを世に遺すため、常人では考えられないような勢いで後継体制の整備を進めていたことを、複数の報道を通し我々の多くが知っていた。

 この世界有数の現代美術コレクターの「終活」は、多くのことを私たちに考えさせる。数十年程度しかない人間の時間のなかで、数百年以上ながらえる美術品を扱うこと。個人的に収集したものの価値と公共性。美術史を編んでいく意義と困難──。 

ブディ・テック

 ブディ・テックは1957年、インドネシアに中華系移民の子孫として生まれた。そして、98年まで続いたスハルト体制のなかで、中華系への厳しい弾圧・排除を経験している。テックはほかの中華系移民二世の財界人たちと力を合わせ、人種差別反対運動に加わり、その結果、法律の修正に成功したという。それでも、「インドネシアでは一般に、中国からの移民は“経済の動物”だと思われていました。私は、中華系は教養がないという考えを反証したいのです」と2013年のインタビューで話している(*1)。

 中華系のアイデンティティを追究することが、テックの美術品収集の原動力になった。彼は、中国現代美術を中心に作品を購入し、海外作品でも、中国の美術に関連するものや、中国の現代美術史に影響したものを収集したという。中国本土に美術館をつくったのも同じ理由が作用しているだろう(*2)。ユズの名前もブディ・テックの中国名「余徳耀(Yu Deyao)」からで、あえて日本語にすれば「余さんの(Yu’s)美術館」になるだろう。中国人にとってとても親しみやすいネーミングだと思う。

 いくつか、彼のコレクションと美術館に対する考えが表れている言葉を、過去の貴重なインタビューから紹介する。

…以前は、いずれにしろ資産になるのだからと、いくつか買って家に置いていたかもしれません。でも、私は共有することが好きな人間なので、なんでも買ったものは人に話して、だんだんコレクションするのが楽しくなっていきました(*3)。 
政府の人たちは、現代美術館を、芸術に興味のない人たちには理解できない文化現象だと見ているかもしれません。(中略)しかし、私は友人たちに、先祖を称えるときは、自分たちも称える必要がある、後の世代はこの時代の瞬間を残してくれたことに対して、私たちを誇りに思うだろう、と言っているんです(*4)。
50年後、100年後に振り返ったときに、はたしてどれが美術史に残るのか? これは非常に長いプロセスで、だからこそ、これからのソフトパワーの確立には、私立美術館がパイオニアになる必要がある。国立の現代美術館は、農場主のように私たちの苦労の結果をいつか収穫してくれるでしょうが、ともかく収穫する前に植える必要があるのです(*5)。