「高松コンテンポラリーアート・アニュアル」は、独創性、将来性のある優れた作家を発掘、紹介する目的で始まったグループ展で、毎回設定したテーマに合わせて数人の作家を取り上げ紹介してきた。2009年のvol.00から始まり、11回目を迎えた今回は、「ここに境界線はない。/?」をテーマとした。
画材や制作方法、テーマやコンセプトが先進的でありこれまでにない表現を追求するコンテンポラリー・アートは、既成概念を覆し、心の内に引いていた境界線をなくしてくれる存在である。その一方で、新しい表現に触れた時に感じる違和感によって、社会や人々の意識のなかにある見えない境界線を明らかにするものでもあるだろう。コンテンポラリー・アートは「境界線はない。」と教えてくれるものでもあり、また反語的に「境界線はない?」と突きつけるものでもある。
このようなテーマのもと、出品作家であるウチダリナ、久保寛子、潘逸舟、ユアサエボシ、森栄喜、5人それぞれの作品を紹介していきたい。
ウチダリナ
和紙を素材に表現を続けるウチダリナは、本展では和紙の作品にくわえて、自身にとって初の試みである映像や写真を含むインスタレーションを発表した。
その新作群は、バブル崩壊によって実の父親を亡くし、その事実を25歳になって初めて知るという自身の経験(*1)に着想を得ている。その個人的な経験を平成という時代に重ね、父親との記憶に関わるパブロ・ピカソ作《ピエレットの婚礼》(1905)と同じ青い色彩を基調とした映像で表現した。また作品に、声と引き換えに足を手に入れた人魚姫のビジュアルを取り入れて、「何かを引き換えにしてでも手に入れたい」という刹那的な価値観を表現するとともに、バブルとその崩壊を体験した平成という時代を象徴的に見せた。
ウチダについては、本展にも出品した《Moths 一》のような和紙を焦がして模様を表現した標本のようにリアルな蛾の作品を知り、「変態(形態・状態・生態などが変わること)」というコンセプトに、展覧会のテーマとの親和性を感じて出品を依頼した。展示を考えるなかで、今回の新作の提案があり、これまで取り組んできた集大成的な内容と、これからの新しい展開を見せる展示となった。
久保寛子
農業や工事現場等で使用される素材で、古代神話や民俗学的なモティーフを表現してきた久保寛子。本展には、ブルーシートと農業用ネットを組み合わせて制作した高さ3メートルを超える大作《オリオンの沈むところ》が出品された。オリオン座のベルトとして知られる三ツ星が、日本でも古来、神話のモティーフとなっていたという説をもとにして、「空、神々、古代」、「地上、労働する人、近代」、そして「海、子、現代(未来)」3つのパートで表現している。また、明治時代、日本の神話を油彩で描いた青木繁(1882-1911)へのオマージュを込めて、「地上、労働する人、近代」を表す図案に青木の代表作《海の幸》(1904)の構図が取り入れられている。
久保の作品は、各地で開催された芸術祭に多数出品され野外に展示されている印象が強い。ただ、それらは、風景に調和して、展示されている環境を含んで演出されているのでなく(もちろんその要素もあるが)、巨大でありながら緻密につくられている圧倒的な作品の自立性によって野外の展示に映えていると感じていた。そのため、美術館の展示室で違う見せ方で紹介したいという想いもあり、今回出品を依頼した。ライティングにより壁に映し出される影が美しく、また丁寧に縫い付けられて仕上げられた一つひとつのモティーフを効果的に見せる展示となった。
潘逸舟
自然の風景の中の自分を撮影した写真や映像作品により「社会」・「全体」と「個」、「他者」と「自己」の関係や境界について様々な示唆を与える作品を制作してきた潘逸舟は、イサム・ノグチ(1904-1988)の作品や仕事をもとにした2点を出品した。
《ここにない足跡―モエレ山》は、イサム・ノグチによる札幌のモエレ沼公園にあるモエレ山で行われたパフォーマンスをもとにしている。事前に撮影した雪に残る足跡を、雪の積もったモエレ山に手持ちのプロジェクターで投影しながら、その足跡を辿って登山するというパフォーマンスで、それを追体験できるように見せた。
《タイム・アンド・スペース / イサム・ノグチ、1989年作》は、1989年に開港した高松空港のためにイサム・ノグチがつくった野外に設置された石積みの作品である《タイム・アンド・スペース》を題材としている。35点の額装された小さな写真それぞれに映っているのは、作品の石の間に生える雑草であり、本来は作品として意図されていなかった雑草を作品とすることにより、何を芸術と呼ぶのか、という問いを生み出した。
潘はこれまで境界をテーマにしてきたし、また海をモティーフにした作品も多く、瀬戸内海が近い高松は作品制作の場としても適しているのではと思い、本展への参加を依頼した。しかし、嬉しい誤算で、モエレ山でのパフォーマンスをきっかけに高松にゆかりの深い(*2)イサム・ノグチに興味を持っていたため、今回の展示に発展した。《タイム・アンド・スペース / イサム・ノグチ、1989年作》は本展の下見に来た際に撮影された作品である。これまで潘は、自然の風景と、自身や自身の身体を対比させて見せる作品を多く制作してきたが、出品作では、過去に生きた美術作家であるイサム・ノグチという新しい視点が加えられた。
ユアサエボシ
「大正生まれの三流画家ユアサヱボシ」として作品を制作するユアサエボシは、この設定のきっかけとなった《GHQ PORTRAITS》(2017)と新作の自画像を含む絵画10点を出品した。
《GHQ PORTRAITS》は、150枚の瓦1枚1枚に進駐軍の米兵の顔を描いた作品で、第二次世界大戦後、ユアサヱボシはこれを彼らに売り日銭を稼いだという架空のストーリーがある。新作《軍装姿の自画像》は、タイトルのとおり軍服に身を包み、銃を担いでポーズを取る自画像で、奇妙なマスク姿は、山下菊二の《日本の敵米国の崩壊》(1943)−−山下菊二(1919〜1986)によって描かれた実在する絵画−−の中心に描かれたマスクをした男のモデルがユアサヱボシであった、という設定で描かれているためである。
ユアサは虚構と現実の境界線を行き来する制作に魅かれ、また高松ゆかりの作家でもあり高松市美術館に所蔵もある山下菊二を取り上げている点にも興味を持ち、本展への参加を依頼した。「大正生まれの三流画家ユアサヱボシ」に擬態しているが、その設定はかなりファジーである。1983年生まれのユアサ自身も作品について語るし、その設定が隠されることはない。ユアサの作品には、ユアサエボシ(1983年生まれ)とユアサヱボシ(1924年生まれ)とそして実際に過去にあったと伝えられる出来事が、境界なく混ざり合っている。それぞれの作品だけでなく、その活動自体を実際の歴史に滑り込ませる手法は、現実と虚構の境界線がいかに曖昧であるかを多分なユーモアを含んで私たちに教えてくれる。
森栄喜
写真家としてキャリアをスタートし、近年、映像やサウンドを使用した作品を制作する森栄喜は、ジェンダー規範や様々なしがらみのなかで、なかったことにされてしまった心の傷を主題に、それをめぐる対話、ケア、回復を、ホーンスピーカーを複数組み合わせ構成する新作《盗まれた傷たち|Stolen Scars》を発表した。また、森の初めてのサウンドインスタレーションである《シボレス|破れたカーディガンの穴から海原を覗く》(2020)も併せて出品された。
《盗まれた傷たち|Stolen Scars》は、友人たちに、ひとつのハンドベルとともに「傷ついた少年のためにベルを鳴らしてほしい」という言葉を送り、それぞれに鳴らした音を自分で録音してもらい、それを森が組み合わせて制作したサウンドのみの作品である。また関連資料として、男性の性被害について研究する宮﨑浩一と森の往復書簡(*3)を、展示室にて配布した。作品のタイトルである「盗まれた傷」というのは、ジェンダー規範における「男らしさ」のもと、存在しないことにされてしまう男性の傷つきを表していることが語られている。
これまでの森の作品やパフォーマンスは、セクシャルマイノリティーに対する差別等の問題を軽やかに表現しながらも、観客を確実にそのことに対峙させる手法に魅かれ、本展への出品を依頼した。展覧会初日に、高松在住の音響作家ばばまさみ(*4)とともに、展覧会場でパフォーマンスも行うことも叶い、充実した展示となった。
展示は紹介した順番に進み、最後の森のサウンドが展示室を出た後も余韻を表すように漏れ聞こえる。
境界線はどこに
当初は単に「ここに境界線はない。」というテーマにしようと考えていた。ただ、現実問題として、多様性が叫ばれる昨今においても差別や偏見といった見えない境界線はそこかしこに存在するし、作品において取り上げられたテーマによって今まで気づかなかった境界線に気づいたり、考えるきっかけになったりすることも多い。
さらに、アート業界にも、様々に境界線を感じること−−例えば、女性作家の不遇問題、作家・研究者の出身大学の偏り、地方と都市の格差等−−がある。また、初日に行われたアーティストトークのなかで、Alternative Space CORE(*5)を共同主催する久保が「現代アートに親しみのない人との間に境界線を感じることが多い」と話題にしたように、様々な文脈の上で成り立つコンテンポラリー・アートに対して、「意味が分からないもの」として距離を感じる観客も少なくないように思う。そのような思いもあって「。」と「?」を併記した。
高松市美術館は、公立の美術館であるため、学校団体や地域の集まりで自分の意志ではなく展覧会に来る来館者も多い。久保がいう、現代アートに普段身近ではない人との間に感じる差を、筆者も日頃から感じている。しかし、そのような経緯で来館したとしても、作家を目指すきっかけになったり、取り上げられているテーマについて考えてみたいと思う機会にもなりうる。また、わからない、と思われたとしても、その存在を生で感じた経験は、その人のなかに息づくだろう。出品作家の潘がアーティストトークのなかで「最近、SNSなどでも理解しないといけない速度がどんどん速くなっているなかで、わからないまま長生きさせる方法もあるなと思っている」と話していたように、わからないと感じさせることは現代社会において貴重な要素である。
わかりやすさだけを求めることも避けながら、作品や作家を紹介する立場として、観客が感じてしまう隔たりを埋める試みを考えていきたい。現在活動している作家を発掘、紹介するという目的とともに、未来の作家と観客を増やし裾野をひろげていくこともこのアニュアル展の大きな目的であると筆者は感じている。これは地方の公立美術館であるからこそ余計に思うことなのかもしれない。
5人の作品を通して境界線について考えたとき、様々な境界線は時代や場所、人、視点によって自在に変わることが理解できる。このように概念上でしか存在しない曖昧なものであるけれど、あるいは、不確実なものであるからこそ、境界線の存在を知ることは、それを超える手がかりともなるし、違いを表す境界線を突き詰めることで、そのものが何であるか、ということの答えに近づくこともできる。個人が得られる情報が増え、これまでないとされてきた境界線に気づくことも多い今、そのことを境界線を飛び越える手がかりとしてほしい。
*1──この出来事については、ウチダ自身がインターネット上で公開していて(ウチダリナ「平成が終わったので、初めて書きます。」2019年9月10日投稿)、この記事によってつながり、作品の協力者となった関係者もいる。
*2──イサム・ノグチは、1969年からこの世を去るまで香川県高松市牟礼町にアトリエを構えていた。現在そのアトリエは、イサム・ノグチ庭園美術館として当時の様子を伝えながら作品が展示されている。
*3──この往復書簡は高松市美術館ウェブサイトにて公開されている。「出品作品《盗まれた傷たち|Stolen Scars》の関連資料:森栄喜と宮﨑浩一による往復書簡「盗まれた男性の傷たち」
*4──ばばまさみは、《シボレス|破れたカーディガンの穴から海原を覗く》のCD化の際に製作に関わっていて、その繋がりから今回パフォーマンスに参加した。
*5──久保が、水野俊紀(Chim↑Pom)、浅田良幸(カルロス)とともに2017年7月広島の基町ショッピングセンター内にオープンした、文化活動のための多目的スペース。現代アートをはじめ、音楽や文学、料理、ファッション、言論、科学など様々なジャンルの文化を発信、共有する事を目的としている。