メメント・モリへの展開
古代地中海世界の死生観を語る「カルペ・ディエム」は、しかし、ユダヤ・キリスト教の世界では生を謳歌する側面を失う。『イザヤ書』(22章13)では信仰のない者への戒めとして、またパウロの『コリント人への第一の手紙』(15章32)では、イエス・キリストの復活を信じない者たちを諌める言葉として用いられる。キリスト教では、現世での生は仮に過ぎず、キリストのごとく朽ちず、力強く、輝かしく「霊の体」として復活して後の死後こそが真の生と教えるからである。そもそも「霊の体」とは何か?と問いたくなろう。とくに芸術家にとって、「霊の体」を表すことは難しかったに相違なく、解剖学が進んだルネサンス期の美術に見るように、理想的な身体として表現する道が模索されたとみられ、キリスト教において禁忌された裸体像も、磔刑のキリストや聖セバスティアンを代表とする殉教聖人には、この理想的身体が適用されることになる。
ところで、とくにキリスト教における身体観を開陳したパウロは、興味深い言葉を残している。同じく『コリント人への第一の手紙』だ。
わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ(4章9)
見世物、スペクタクルとしての死。それは「パンとサーカス」を追求した古代ローマにあって、円形競技場で生死をかける剣闘士、猛獣の餌食となる奴隷や罪人らと同じく、キリスト教徒は「サーカス」「スペクタクル」として競技場に引き出され、火炙り、猛獣の餌食、拷問の数々を受けながら天を仰ぎ、キリストの名を叫びながら息絶えたのである。幾多の殉教者の血糊で汚れた円形競技場や浴場は、洗い流され、新たな餌食を待つべく装いを整えて狂乱のローマ市民を受け入れたのだ。
「メメント・モリ」はキリスト教時代に入って暗い側面を得たかのように見受けられるが、現世より来世を信じるキリスト教にあっても、強靭な生命力がこの警句の背後にはあったことを忘れてはならない。その典型こそが、ラグランジュ枢機卿(1402年没)のトランシ墓碑像だ(図7)。現存するのはモニュメンタルな墓碑の下部のみであるが、そこには腐敗した姿をさらすラグランジュの裸体死骸像が浮彫され、その上の帯に墓碑銘文が刻まれている。
我らは世のために見世物(スペクタクル)を造らせた。老若あげて我らを見よ、ゆく末に思いを致すべく。官位、男女の別、齢を問わず、何人も死を逃れることあたわず。しからば哀れなる者よ、何故驕り高ぶりのか。汝、これ塵灰、我らと同じく穢らわしい屍、蛆虫の餌食なる肉、また灰に帰すものなり(小池訳)
死後の肉体の状態を表現したトランシ像を配した墓碑の流行は1380年代から16世紀にわたる。数々の現存するトランシ墓碑像は、死後の肉体の変化を裸体で示し、墓参者や通りすがりの者に祈りと悔い改めを促す趣向である。しかしその隠された意図、つまりスペクタクルとしての死を表明した墓碑は現存しない。ラグランジュの碑文にある「我ら」という複数形には、古代ローマ末期以来の殉教者に連なるという自負が見られはしまいか。しかも死体を裸体として表現する習慣は、前述したように、死せるキリストと男性殉教聖人に適用されたはずである。
ふたたび古代世界を振り返ってみよう。古代ギリシアでは、饗宴や運動において男子は裸体であり、ギリシア美術には、写実ではなく、あくまでも理想的人体をもって表現された。しかも英雄は、かならずや死してなお理想的裸体として表現され、それはクラシック期に頂点に達したギリシア的理想美の結晶である。その系譜において、おそらく唯一の腐敗死骸像の現存例はヘレニズム末期の墓碑である(図8)。半ば腹の膨らんだ死骸像を刻む墓碑には、喜劇作者ルキアノス『死者の対話』(2世紀)で語られる冥府の民主主義について記されている。美青年ヒュラスと醜男テルシテスも、死に至っては美醜の差はないのだ、と。この諧謔的な死生観はラグランジュの墓碑と共鳴するのみならず、キリスト教世界を通じて連綿と流れていたのである。
歴史を振り返るということ
幾度か目の千年王国の到来と言われた1500年を前にして、ニュルンベルクの医師ハルトマン・シェーデルが出版した『ニュルンベルク年代記』の掉尾を飾る「第7の時代」には、16世紀への転換を物語る挿絵がある(図9)。死んでばかりはいられない、と言わんばかりに墓場から踊り出た四人の骸骨。もうひとりも墓穴からむくむくと起き上がろうとしている。第7の時代とは、中世において信じられていた最後の審判が訪れる直前の時代を指し、まさしく死者たちは審判を受けるべく墓場から躍り出ているのだ。「死の舞踏」でも踊る死者たちが描かれるが、これほど浮かれ騒ぐ死者の描写はない。
「死の舞踏」も、ペストが日常化した時代に生まれたイメージであることを忘れてはならない。人々は、この舞踏行列から、人は身分の貴賤に問わず老若男女すべて必ずや死ぬことを学んだのであった。最初期の「死の舞踏」は、かのヴィヨンがたむろしたパリ、聖イノサン墓地を囲む回廊に1424年から25年にかけて描かれた壁画であったが、その頃は、人々は死に慣れ始めていたのである。ほどなく15世紀後半、『盲目の舞踏』という詩文が書かれ、その挿絵には、愛(エロス)、運命(フォーチュン)、死(アトロポス=古代ギリシア以来の運命の女神のひとり)と牛に載った死神が描かれている(図10)。人は「愛(エロス)」に導かれ、己の人生を生きるが、運命の女神によって悪運善運に差配される。そのような人生にはまると、盲目の死が訪れる、という詩文だ。愛も運命も死も目隠しをしているが、注目すべきは、「牛に載った死」だ。それはペスト蔓延期の「矢のように襲う死」から時が経ち、牛のごとくゆっくり着実に死が訪れることを示している。
12世紀、フランスはシャルトル大聖堂の学問所を率いたベルナルドゥスという人物がいた。彼は、私たちは巨人に肩車されているように遠くまで見渡せる、と書き残している。歴史という巨人を知れば知るほど、私たちはその知恵の蓄積の上に立って、先々を観、予見することができる。未来を知るためには過去を知るに如くはない。
コロナ禍の只中にあって、ただ、「ステイホーム」「ソーシャルディスタンス」という言葉だけを鵜呑みにするのではなく、何より歴史認識と批判精神をもってこのカタストロフを乗り切る、否、カタストロフのなかで生きることが大切であろう。そして言葉が乱れる時は過去においてもひとつの歴史が終わる時、ということも改めて心に留めたい。果たして、私たちの前には暗い深淵が口を開けているのだろうか、はたまた空蝉のごときルネサンスの扉が開かれるのだろうか。自分とは何か、人間は長い歴史のなかで何をしてきたのか、それが問われているのである。
*1──G. ボッカッチョ著、柏熊達生訳『デカメロン〈上〉』 (ちくま文庫)、筑摩書房、1987年、pp.19~20、p.26
*2──ピエール・シャンピオン著、佐藤輝夫訳『フランソア・ヴィヨン 生涯とその時代〈下〉』、筑摩書房、1971年、p.311
*3──佐藤輝夫訳『フランソア・ヴィヨン全詩集』、河出書房新社、1976年、p.225
*4──ピエール・シャンピオン著、佐藤輝夫訳『フランソア・ヴィヨン 生涯とその時代〈上〉』、筑摩書房、1970年、p.493
*5──ガイウス・ペトロニウス著、国原吉之助訳『サテュリコン―古代ローマの諷刺小説 』(岩波文庫)、岩波書店岩波書店、1991年、p.57
*6──松平千秋訳『ヘロドトス 歴史(上巻)』(岩波文庫) 、岩波書店、1971年、p.118