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小池寿子が紐解く「死」の表現史──巨人の肩車に載って私たちは何を見るのか【2/5ページ】

疫病・文学・美術──1348年のペスト

 ペストは幾度となくヨーロッパを襲ったが、分けても猛威を振るったのは、1347年からのぺストである。

 ユーラシア大陸からカスピ海と黒海を経て地中海に入った貿易船には、ペスト菌を保持した鼠が乗船しており、今風に言えば3密状態の船で感染が広まり、その船が港港に黒死病とのちに呼ばれる疫病を蔓延させていった。

 ぺスト菌の温床はユーラシア大陸、天山山脈南辺りにかなり集中しているとされ、言わずもがなシルクロードを介しての東西貿易による人の移動によって拡散していった。富と豪奢を求める人間の本能的欲望は、つねに危険と死と隣り合わせなのである。シチリア島を席巻し、1348年にパリ辺りまで北上、1350年スカンディナビアまで蔓延したこのぺストによって、ヨーロッパの人口の三分の一が亡くなったという。

 その詳細を伝えるのは、イタリアの文人ボッカッチョの『デカメロン』に如くはない。その序ではつぎのように語られる(*1)。

 さて、神の子の降誕から、すでに1348年におよびましたが、その時イタリアの他のすべての都市にまさって明媚をもって鳴るフィレンツェの都に、致死の疫病が見舞ったのであります。それは、天体の影響によるのか、あるいは私たちの不正な行ないを矯正しようとする神のお怒りが人間にくだされたのか、数年前東洋の諸地方ではじまり、そこで無数の人間の命をうばって、一つの土地から他の土地へととどまることなくつづいて、情けないことに西洋に向かって蔓延してきました。(中略)    それは、鼻血がでたら死の宣告だった東洋のとは違って、罹病の初期に、男も女も同じように、股のつけねか腋の下にこわばった腫瘍ができて、(中略)親戚や近隣の女たちが死人の家に集まって、そこで、死人ともっとも近しい親戚にあたる女たちと一緒に泣くことが(今日でも行われているのを見かけることですが)従来習慣とされてきました。(中略)それにかわって、別の新しいことが起ってまいりました。そこで人々は(中略)介添人にもつきそわれずにこの世を去っていく者も大勢いました。で近親の憐憫のなげきや、にがい涙をそそがれる者はほんのわずかでした。むしろそのかわりに、たいていは仲間の笑い声や、冗談や、馬鹿騒ぎがきまっておこりました。

 私はペストに関するこれほど生き生きとした文学的記録を他に知らない。カミュ『ペスト』はまったくの別の文学なのである。ボッカッチョの筆の冴えは、まるでペストに罹病した世界を眼前に蘇らせるかのように精彩を放っている。物語では、このフィレンツェのペスト禍を逃れるために、男女10人が郊外の邸宅に移り住み、10日にわたって物語を語りながら過ごす。ペスト来襲を反映しているとみられるピサのカンポ・サントの壁画「死の勝利」(図1)も当時の恐怖を知るうえで貴重なイメージ資料であるが、『デカメロン』の挿絵や独立した絵画も多く描かれ、「疫病」に対峙した人間の心理を探るまたとないイメージを提供してくれる。言葉だけでなく、イメージが疫病のありさまを伝えてくれるようになるのは、じつにこのペストの時代なのだ。

図1.死の勝利 ピサ、カンポサント墓地回廊壁画 14世紀半ば

編集部

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