さあ、この世を旅立つときに
宮廷的洗練をもったボッカッチョの文体に対して、民衆の心根をしかと掴む詩人もいる。フランソワ・ヴィヨンである。彼は、百年戦争とペストの蔓延に明け暮れたのち、いくばくか凪を迎え、疲弊の中にも死に慣れ親しんだ雰囲気が漂い始めていたとはいえ、いまだ暗澹たる15世紀のパリを痛快に生きた。私が敬愛するこの詩人は、1431年ポントワーズのほとりなるパリに生まれ、パリ大学で学びながらも放蕩無頼の人生を送り、30歳頃には殺傷、窃盗、司教殺害という罪で古巣を追われて行方知れずとなった。「ご存じですか、この男が何をしたかを/黒葡萄酒(ヴァン・モリヨン)を一かけぐいっと引っかけて、さあ出掛けましたぞ/いざやこの世を立つときに!」(*2)と、死ぬものは一切を語る権利を有するとして、愛情と憎悪、悲哀と皮肉を塗り込めた『遺言書』をしたためた。
ヴィヨンが生きた時代、「死の舞踏」(Dance Macabre ダンス・マカーブル)と呼ばれる絵図が流布していた。「死の舞踏」とは、死者が生者を墓場へといざなう行列図であり、まるで踊るような姿で描かれるためこのような名を持つ。付された詩文によると、死者は生者のなれの果てを映す鏡と謳われており、その舞踏行列図を見る我々も自身のなれの果てをそこに見ることになるというわけだ(図2)。
さて、ヴィヨンは、パリ追放になる前に首吊りを宣告されて「首吊りのバラード」(墓碑銘)を謳っている。「美食をもって 飼われたる その肉叢も/はや 蝕まれ 腐ち 果てて/枯骨となれる われら やがて 灰燼に帰す/何人も この非業 嘲笑い給うな/われらが 罪の みな許されてよ! と 神に祈りて」(*3)。当時、六尺(1・8メートル位)と定められた綱に吊り下げられた5、6人の罪人と共に果てるはずだったヴィヨンは、無事に釈放されたのであるが、この「首吊りのバラード」の挿絵(図3)は何ともユーモラスではないか。
当時のパリの処刑所はシャトレという牢獄で、現在は交通網の中心シャトレ=レ・アール駅界隈である。近隣には「死の舞踏」が初めて描かれた聖イノサン墓地があり、お供え物目当ての浮浪者、出店を構える代書屋や商人で大いに賑わっていた。ハリー・ポッターで知られるニコラ、錬金術師ニコラ・フラメルも代筆屋を構えていた。むろんヴィヨンもこの共同墓地に足しげく通い、納骨堂にうずたかく積み上げられた曝首をじっと眺めながら、死者に身分の相違などない、と嘆息する詩を『遺言書』に残しているが、さらに墓地で墓掘を生業としている男たちの何とも愉快な詩も残している。
穴掘り:死人の多い時分には、わしの財布はお宝で膨らんでいたよ。 人足:それに、旦那、穴を上手に掘るというのも、わざでさあね! 穴掘り:偉いやつも、偉くないやつも、老いも、若きも、まるで萊豆のように元気なやつが、死神様にかっ攫われていた時代はいずくへ行った? 人さまがくたばると、わしは陽気だ!(*4)
当時の墓地を描いた写本挿絵は、墓堀人夫の言葉を彷彿させる。大きな古木に黒衣の修道士がとまり、三人の死者と三人の生者とその下方には頭蓋骨が並べられた納骨堂に囲まれた墓地が描かれている(図4)。
ところで、インノケンティス3世の時代からヴィヨンとその時代に通奏低音のように流れるのは、キリスト教中世、とくに12世紀頃からさかんに用いられた「メメント・モリ(memento mori)」、つまり「死を記憶せよ」という警句である。「メメント・モリ」は、ただたんに、死は必ずや訪れることを心に留め置け、という忌まわしい警句ではない。ヴィヨンが朗々と謳うごとく、死の裏側には、はかなき生の輝きがある。