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小池寿子が紐解く「死」の表現史──巨人の肩車に載って私たちは何を見るのか

新型コロナウイルスの感染拡大は、私たちと「死」の距離を急速に縮めた。しかし歴史を遡れば、疫病による死が身近にあった時代は幾度も訪れている。とりわけ14世紀のペスト禍は、ヨーロッパの人口の3分の1とも言われる膨大な犠牲者を生んだ。そうしたなかで、人々はどのように「死」を芸術に表現してきたのか? また、その西洋の死生観には、どんな変遷があるのか? 中世美術の研究者で、ペスト後に隆盛した主題「死の舞踏」に関する著作でも知られる國學院大學教授・小池寿子による特別エッセイをお届けする。

文=小池寿子 編集協力=杉原環樹

死の舞踏(バーント・ノトケ?) 15世紀後期 タリン 聖ニコラース聖堂
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カタストロフを振り返る

 「コロナ」(皆既日食時に見える希薄なガスの層、冠やガーランドに由来)という輝かしく美しい名を持ちながら、強烈な破壊力によって人々の命と生活を脅かすウイルスが出現し、共に生きるようになってから、すでに半年が経とうとしている。「新型コロナ」の名を聴かない日はなく、感染者数と死亡者数が報道される日常に、私たちは果たして慣れ親しんでいるのだろうか。知らぬ間に蝕まれてゆく精神と肉体は、もはや悲鳴を上げる状態にまで至り、かたや見えざる相手は「病」として肉化され可視化されている。

 西洋の死生観を探っている私は、オンライン授業のために新たな画像資料をつくりつつ、改めて病と死から歴史を振り返る日々を送っている。『人間状態の悲惨(人間の悲惨な境遇について)』とは、ロタリオ・ディ・セニ(教皇インノケンティウス、在位1198年~1216年)という教皇権の確立に絶大な権力を発揮した人物の著作だ。彼は「暗黒時代」としばしば称される中世を肩に担い、悲劇的な第4回十字軍や悲壮な少年十字軍を導いた波乱万丈の時代を率いた傑人である。教皇権の絶頂期を築き上げたものの、自身の心身の腐敗は免れることなく、1216年7月16日、ペルージャで突然死した。だが、そもそも古代ギリシア・ローマとルネサンスの栄華に挟まれた中間の時代=「中世」ばかりが悲惨な時代だったわけではない。

 紀元前1200年頃、地中海世界東部を未曽有のカタストロフが襲った。

 ペロポネソス半島ではミケーネ人が興隆し、小アジアでは鉄器の発明で有名なヒッタイトが勢力を振るい、エジプトでは強靭なラムセス2世や若くして命を落としたツタンカーメンで有名な新王国の時代であったが、しかし突然、ヒッタイトが崩壊、エジプトは「海の民」として記される舟を操るに長けた諸民族の襲撃で弱体化、ミケーネ文明も崩壊し、東地中海の勢力図は大きく変わった。このカタストロフについては、経済システムの崩壊、気候変動や飢饉、地震など様々な説が提示されているが決定的な解答は出てない。恐竜の時代が6500万年前の小惑星の衝突によって終わったのはよく知られているが、歴史にはまるでブラックホールのような空隙に忽然と多くの命が吸い込まれてゆく時期がある。「前1200年のカタストロフ」では紺碧のエーゲ海にあまたの命が消えていったのである。

 とくにギリシアではこの後、紀元前700年頃にホメロスやヘシオドスが登場するまでを「暗黒時代」と称する場合もある。線文字AとBと呼ばれるクレタ文明とミケーネ文明の文字は姿を消し、やがて、フェニキア文字からギリシアのアルファベットが作られ、歴史と文学が語られるようになり、私たちはそれを「神話」というかたちで受け継いでいる。しかし、暗黒時代という呼称は適切ではなく、とくにダメージを被ったギリシアでも鉄器の時代を迎え、前1100年頃からは幾何学様式の簡素だが力強い造形が生まれている。ホメロス、ヘシオドスの文学の誕生は、「ルネサンス」とも呼ばれているが、どうやら「ルネサンス」は苦難の暗黒時代を経るとやってくるとみなされている節がある。しかし、歴史とはそれほど簡単な展開を迎えるわけではない。

 疫病によるカタストロフと言えば、パルテノン神殿を造営してアテナイ最盛期を築き上げた政治家ペリクレス(前495年?~492年)を襲った疫病は、民主政治を謳ったこの名演説家の命を492年に奪い、敵対するスパルタもろともギリシア古典期に終焉をもたらし、アレクサンドロス大王の登場を促した。要は、栄枯盛衰、衰退と興隆を繰り返すのが歴史の必然なのである。それをしかと見定めることこそ肝要なのであって、むやみに「ルネサンス」という特殊用語は使わないに越したことはない。

 さらに栄枯盛衰を疫病の観点で追うならば、時代は下って、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)を最大の版図に拡大した皇帝ユスティニアヌス(在位527年~565年)の時代を襲ったペスト(ユスティニアヌスのぺスト)がある。皇帝自身はこの疫病を免れるが、多くの戦力を失ったビザンティン帝国は衰微してゆく。当時の名将軍ベリサリウスの書記官プロコピオス(527年~554年)は、『ペルシア戦役』で「ユスティニアヌスのぺスト」について詳細に記すだけでなく、『秘話』において皇帝の無能ぶりもしこたま揶揄している。筆の力は、時代を浮き彫りにし、さらに誇張粉飾もまじえて「歴史」を伝えてくれるのだ。

疫病・文学・美術──1348年のペスト

 ペストは幾度となくヨーロッパを襲ったが、分けても猛威を振るったのは、1347年からのぺストである。

 ユーラシア大陸からカスピ海と黒海を経て地中海に入った貿易船には、ペスト菌を保持した鼠が乗船しており、今風に言えば3密状態の船で感染が広まり、その船が港港に黒死病とのちに呼ばれる疫病を蔓延させていった。

 ぺスト菌の温床はユーラシア大陸、天山山脈南辺りにかなり集中しているとされ、言わずもがなシルクロードを介しての東西貿易による人の移動によって拡散していった。富と豪奢を求める人間の本能的欲望は、つねに危険と死と隣り合わせなのである。シチリア島を席巻し、1348年にパリ辺りまで北上、1350年スカンディナビアまで蔓延したこのぺストによって、ヨーロッパの人口の三分の一が亡くなったという。

 その詳細を伝えるのは、イタリアの文人ボッカッチョの『デカメロン』に如くはない。その序ではつぎのように語られる(*1)。

 さて、神の子の降誕から、すでに1348年におよびましたが、その時イタリアの他のすべての都市にまさって明媚をもって鳴るフィレンツェの都に、致死の疫病が見舞ったのであります。それは、天体の影響によるのか、あるいは私たちの不正な行ないを矯正しようとする神のお怒りが人間にくだされたのか、数年前東洋の諸地方ではじまり、そこで無数の人間の命をうばって、一つの土地から他の土地へととどまることなくつづいて、情けないことに西洋に向かって蔓延してきました。(中略)    それは、鼻血がでたら死の宣告だった東洋のとは違って、罹病の初期に、男も女も同じように、股のつけねか腋の下にこわばった腫瘍ができて、(中略)親戚や近隣の女たちが死人の家に集まって、そこで、死人ともっとも近しい親戚にあたる女たちと一緒に泣くことが(今日でも行われているのを見かけることですが)従来習慣とされてきました。(中略)それにかわって、別の新しいことが起ってまいりました。そこで人々は(中略)介添人にもつきそわれずにこの世を去っていく者も大勢いました。で近親の憐憫のなげきや、にがい涙をそそがれる者はほんのわずかでした。むしろそのかわりに、たいていは仲間の笑い声や、冗談や、馬鹿騒ぎがきまっておこりました。

 私はペストに関するこれほど生き生きとした文学的記録を他に知らない。カミュ『ペスト』はまったくの別の文学なのである。ボッカッチョの筆の冴えは、まるでペストに罹病した世界を眼前に蘇らせるかのように精彩を放っている。物語では、このフィレンツェのペスト禍を逃れるために、男女10人が郊外の邸宅に移り住み、10日にわたって物語を語りながら過ごす。ペスト来襲を反映しているとみられるピサのカンポ・サントの壁画「死の勝利」(図1)も当時の恐怖を知るうえで貴重なイメージ資料であるが、『デカメロン』の挿絵や独立した絵画も多く描かれ、「疫病」に対峙した人間の心理を探るまたとないイメージを提供してくれる。言葉だけでなく、イメージが疫病のありさまを伝えてくれるようになるのは、じつにこのペストの時代なのだ。

図1.死の勝利 ピサ、カンポサント墓地回廊壁画 14世紀半ば

さあ、この世を旅立つときに

 宮廷的洗練をもったボッカッチョの文体に対して、民衆の心根をしかと掴む詩人もいる。フランソワ・ヴィヨンである。彼は、百年戦争とペストの蔓延に明け暮れたのち、いくばくか凪を迎え、疲弊の中にも死に慣れ親しんだ雰囲気が漂い始めていたとはいえ、いまだ暗澹たる15世紀のパリを痛快に生きた。私が敬愛するこの詩人は、1431年ポントワーズのほとりなるパリに生まれ、パリ大学で学びながらも放蕩無頼の人生を送り、30歳頃には殺傷、窃盗、司教殺害という罪で古巣を追われて行方知れずとなった。「ご存じですか、この男が何をしたかを/黒葡萄酒(ヴァン・モリヨン)を一かけぐいっと引っかけて、さあ出掛けましたぞ/いざやこの世を立つときに!」(*2)と、死ぬものは一切を語る権利を有するとして、愛情と憎悪、悲哀と皮肉を塗り込めた『遺言書』をしたためた。

 ヴィヨンが生きた時代、「死の舞踏」(Dance Macabre ダンス・マカーブル)と呼ばれる絵図が流布していた。「死の舞踏」とは、死者が生者を墓場へといざなう行列図であり、まるで踊るような姿で描かれるためこのような名を持つ。付された詩文によると、死者は生者のなれの果てを映す鏡と謳われており、その舞踏行列図を見る我々も自身のなれの果てをそこに見ることになるというわけだ(図2)。

図2.死の舞踏(バーント・ノトケ?) 15世紀後期 タリン 聖ニコラース聖堂

 さて、ヴィヨンは、パリ追放になる前に首吊りを宣告されて「首吊りのバラード」(墓碑銘)を謳っている。「美食をもって 飼われたる その肉叢も/はや 蝕まれ 腐ち 果てて/枯骨となれる われら やがて 灰燼に帰す/何人も この非業 嘲笑い給うな/われらが 罪の みな許されてよ! と 神に祈りて」(*3)。当時、六尺(1・8メートル位)と定められた綱に吊り下げられた5、6人の罪人と共に果てるはずだったヴィヨンは、無事に釈放されたのであるが、この「首吊りのバラード」の挿絵(図3)は何ともユーモラスではないか。

図3 .フランソワ・ヴィヨン『遺言』挿絵 1489年刊ピエール・ルヴェ本

 当時のパリの処刑所はシャトレという牢獄で、現在は交通網の中心シャトレ=レ・アール駅界隈である。近隣には「死の舞踏」が初めて描かれた聖イノサン墓地があり、お供え物目当ての浮浪者、出店を構える代書屋や商人で大いに賑わっていた。ハリー・ポッターで知られるニコラ、錬金術師ニコラ・フラメルも代筆屋を構えていた。むろんヴィヨンもこの共同墓地に足しげく通い、納骨堂にうずたかく積み上げられた曝首をじっと眺めながら、死者に身分の相違などない、と嘆息する詩を『遺言書』に残しているが、さらに墓地で墓掘を生業としている男たちの何とも愉快な詩も残している。

穴掘り:死人の多い時分には、わしの財布はお宝で膨らんでいたよ。 人足:それに、旦那、穴を上手に掘るというのも、わざでさあね! 穴掘り:偉いやつも、偉くないやつも、老いも、若きも、まるで萊豆のように元気なやつが、死神様にかっ攫われていた時代はいずくへ行った? 人さまがくたばると、わしは陽気だ!(*4)

 当時の墓地を描いた写本挿絵は、墓堀人夫の言葉を彷彿させる。大きな古木に黒衣の修道士がとまり、三人の死者と三人の生者とその下方には頭蓋骨が並べられた納骨堂に囲まれた墓地が描かれている(図4)。

図4.フランソワの画家「三人の死者と三人の生者と墓地(死者のための聖務日課)」『ワーンクリフの時祷書』挿絵 1475頃 メルボルン、ナショナル・ギャラリー・オブ・ヴィクトリア所蔵 写本Fr.Ms.Felton1,fol.78.c

 ところで、インノケンティス3世の時代からヴィヨンとその時代に通奏低音のように流れるのは、キリスト教中世、とくに12世紀頃からさかんに用いられた「メメント・モリ(memento mori)」、つまり「死を記憶せよ」という警句である。「メメント・モリ」は、ただたんに、死は必ずや訪れることを心に留め置け、という忌まわしい警句ではない。ヴィヨンが朗々と謳うごとく、死の裏側には、はかなき生の輝きがある。

トルマルキオの饗宴―生死のスペクタクル

 「メメント・モリ」という思想の淵源は、「カルペ・ディエム(carpe diem)」にある。紀元前1世紀の古代ローマの詩人ホラティウスの『歌集』(第1巻第11詩)では、神々はいかなる死をいつ我々に与えるかは分からないから、死について思い悩むより、どのような死でも受け入れるように、明日のことはできるだけ信用せず、「その日の花を摘め」(Carpe diem)と謳った。この名言は同時代の墓碑にも綴られるが、ローマ帝政期の皇帝ネロの寵臣ペトロニウスの『サテュリコン』で炸裂する。

 ペトロニウスは、昼間は眠り、夜を仕事と快楽に過ごした「優雅の判官」であったが、ネロの策謀によって自殺に追い込まれ、血管を切って流れる血を眺め、静かに友人と談笑して眠るように死んだという。ネロに対する復讐とローマ帝国の滅亡を予感して著されたこの『サテュリコン』(1世紀)は、主人公の青年エンコルピウスとアスキュルトス、そして美少年の奴隷ギトンが地中海の港町を彷徨する猥雑で混沌とした、いわば「悪漢小説」である。ちなみに、この爛熟と頽廃のローマ古代社会の描写については、原作もさることながら、映像の魔術師フェデリコ・フェリーニの『サテリコン』に勝るものはないだろう。

 冗長な原作においても、わけても「トルマルキオの饗宴」は見せ場のひとつだ。解放奴隷トルマルキオが成金となって邸宅で豪勢な饗宴を催す場面である。浅薄な知識をひけらかすトルマルキオ、贅沢だが吐き気を催す料理の品々、会食者の馬鹿騒ぎぶりと猥談の数々に現実を見定める作者ペトロニウスの冷徹さと諦念がないまぜになる。なかでも極め付きは「オピミウス収穫のファレルナ葡萄酒百年経過」とのラベル付きの酒瓶が運ばれて、ますます酔いしれる饗宴者たちの前にひとりの奴隷が銀製の骸骨(larva argentea)を持って現れる場面だ。この銀製の骸骨の模型は関節と背骨がどの方向にも自在に動かせるよう巧みに造られていて、様々な姿勢を取らせた後、トルマルキオはつぎのように言う。

ああ! わしらはなんと哀れな奴か。人はみな空の空。 死神オルクスがわしらをさらっていくと、みなこうなるのさ。 されば、元気なうちに楽しもうではないか。(*5)

 トルマルキオの饗宴でお披露目された「銀製骸骨」(larva argentea)は、原義を辿ると、larvaは「影」「魂」を意味し、骸骨の姿の模型でありながら銀製の魂ということになる。つまり死者として表象されるのは魂なのである。宴席におけるこの趣向は古代ローマに始まる酔狂ではない。古代ギリシアの歴史家ヘロドトス『歴史』によると、古代エジプトの富裕階層が催す宴会では、食事が終わり酒宴に入るときに、木で人間の死体をかたどったものを箱に入れて持ちまわる習慣があったという。この木製の骸骨は、描き方から彫り方まで実物そっくりで、背丈は1ぺキュス(約46センチメートル)ないし2ペキュス。宴会の主人は、この骸骨を会食者一人ひとりに見せてこう言う。

これを見ながらせいぜい楽しく酒をお過ごしください。あなたも亡くなられたら、このような姿になられるのですからな(*6)

 古代ローマの「カルペ・ディエム」の思想は、たとえば、なんとも愛らしい酒瓶をもつ骸骨(図5)、「グノーシス・カイトン」(汝自身を知れ)と記された墓碑モザイク、またボスコレアーレ出土の銀製カップ(図6)に見られる。このポンペイ近郊から出土した銀製カップには、数人の骸骨が浮彫され、ひとりは頭陀袋をぶら下げて杖をつき、その左側には、円形テーブルの上に置かれた菓子に手を伸ばす骸骨が足許に豚を従えている。銘文から、前者はストア主義者ゼノン、後者は享楽主義者エピキュロスであると知られ、菓子の上には「快楽こそ最後の目的である」と記されている。「生あるうちに今をとらえよ。なぜなら明日は定かならぬから」「生きている間に楽しみたまえ」などの銘文もある。上部を花綱で飾られたこの酒杯こそ「カルペ・ディエム」そのものなのだ。

図5.酒瓶を持つ骸骨 ポンペイ出土 モザイク 1世紀 ナポリ考古学博物館
図6. 骸骨の彫られた銀製カップ ボスコレアーレ出土 前15年 ルーヴル美術館

メメント・モリへの展開

 古代地中海世界の死生観を語る「カルペ・ディエム」は、しかし、ユダヤ・キリスト教の世界では生を謳歌する側面を失う。『イザヤ書』(22章13)では信仰のない者への戒めとして、またパウロの『コリント人への第一の手紙』(15章32)では、イエス・キリストの復活を信じない者たちを諌める言葉として用いられる。キリスト教では、現世での生は仮に過ぎず、キリストのごとく朽ちず、力強く、輝かしく「霊の体」として復活して後の死後こそが真の生と教えるからである。そもそも「霊の体」とは何か?と問いたくなろう。とくに芸術家にとって、「霊の体」を表すことは難しかったに相違なく、解剖学が進んだルネサンス期の美術に見るように、理想的な身体として表現する道が模索されたとみられ、キリスト教において禁忌された裸体像も、磔刑のキリストや聖セバスティアンを代表とする殉教聖人には、この理想的身体が適用されることになる。

 ところで、とくにキリスト教における身体観を開陳したパウロは、興味深い言葉を残している。同じく『コリント人への第一の手紙』だ。

わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ(4章9)

 見世物、スペクタクルとしての死。それは「パンとサーカス」を追求した古代ローマにあって、円形競技場で生死をかける剣闘士、猛獣の餌食となる奴隷や罪人らと同じく、キリスト教徒は「サーカス」「スペクタクル」として競技場に引き出され、火炙り、猛獣の餌食、拷問の数々を受けながら天を仰ぎ、キリストの名を叫びながら息絶えたのである。幾多の殉教者の血糊で汚れた円形競技場や浴場は、洗い流され、新たな餌食を待つべく装いを整えて狂乱のローマ市民を受け入れたのだ。

 「メメント・モリ」はキリスト教時代に入って暗い側面を得たかのように見受けられるが、現世より来世を信じるキリスト教にあっても、強靭な生命力がこの警句の背後にはあったことを忘れてはならない。その典型こそが、ラグランジュ枢機卿(1402年没)のトランシ墓碑像だ(図7)。現存するのはモニュメンタルな墓碑の下部のみであるが、そこには腐敗した姿をさらすラグランジュの裸体死骸像が浮彫され、その上の帯に墓碑銘文が刻まれている。

我らは世のために見世物(スペクタクル)を造らせた。老若あげて我らを見よ、ゆく末に思いを致すべく。官位、男女の別、齢を問わず、何人も死を逃れることあたわず。しからば哀れなる者よ、何故驕り高ぶりのか。汝、これ塵灰、我らと同じく穢らわしい屍、蛆虫の餌食なる肉、また灰に帰すものなり(小池訳)
図7.ラグランジュ枢機卿(1402年没)のトランシ墓像 カルヴェ美術館(アヴィニョン)

 死後の肉体の状態を表現したトランシ像を配した墓碑の流行は1380年代から16世紀にわたる。数々の現存するトランシ墓碑像は、死後の肉体の変化を裸体で示し、墓参者や通りすがりの者に祈りと悔い改めを促す趣向である。しかしその隠された意図、つまりスペクタクルとしての死を表明した墓碑は現存しない。ラグランジュの碑文にある「我ら」という複数形には、古代ローマ末期以来の殉教者に連なるという自負が見られはしまいか。しかも死体を裸体として表現する習慣は、前述したように、死せるキリストと男性殉教聖人に適用されたはずである。

 ふたたび古代世界を振り返ってみよう。古代ギリシアでは、饗宴や運動において男子は裸体であり、ギリシア美術には、写実ではなく、あくまでも理想的人体をもって表現された。しかも英雄は、かならずや死してなお理想的裸体として表現され、それはクラシック期に頂点に達したギリシア的理想美の結晶である。その系譜において、おそらく唯一の腐敗死骸像の現存例はヘレニズム末期の墓碑である(図8)。半ば腹の膨らんだ死骸像を刻む墓碑には、喜劇作者ルキアノス『死者の対話』(2世紀)で語られる冥府の民主主義について記されている。美青年ヒュラスと醜男テルシテスも、死に至っては美醜の差はないのだ、と。この諧謔的な死生観はラグランジュの墓碑と共鳴するのみならず、キリスト教世界を通じて連綿と流れていたのである。

図8.古代ギリシア墓碑 3世紀 大英博物館蔵

歴史を振り返るということ

 幾度か目の千年王国の到来と言われた1500年を前にして、ニュルンベルクの医師ハルトマン・シェーデルが出版した『ニュルンベルク年代記』の掉尾を飾る「第7の時代」には、16世紀への転換を物語る挿絵がある(図9)。死んでばかりはいられない、と言わんばかりに墓場から踊り出た四人の骸骨。もうひとりも墓穴からむくむくと起き上がろうとしている。第7の時代とは、中世において信じられていた最後の審判が訪れる直前の時代を指し、まさしく死者たちは審判を受けるべく墓場から躍り出ているのだ。「死の舞踏」でも踊る死者たちが描かれるが、これほど浮かれ騒ぐ死者の描写はない。

図9.ミヒャエル・ヴォルゲムート「第7の時代 骸骨の舞踏」ハルトマン・シェーデル『世界年代記』ニュルンベルク刊 1493 彩色木版画

 「死の舞踏」も、ペストが日常化した時代に生まれたイメージであることを忘れてはならない。人々は、この舞踏行列から、人は身分の貴賤に問わず老若男女すべて必ずや死ぬことを学んだのであった。最初期の「死の舞踏」は、かのヴィヨンがたむろしたパリ、聖イノサン墓地を囲む回廊に1424年から25年にかけて描かれた壁画であったが、その頃は、人々は死に慣れ始めていたのである。ほどなく15世紀後半、『盲目の舞踏』という詩文が書かれ、その挿絵には、愛(エロス)、運命(フォーチュン)、死(アトロポス=古代ギリシア以来の運命の女神のひとり)と牛に載った死神が描かれている(図10)。人は「愛(エロス)」に導かれ、己の人生を生きるが、運命の女神によって悪運善運に差配される。そのような人生にはまると、盲目の死が訪れる、という詩文だ。愛も運命も死も目隠しをしているが、注目すべきは、「牛に載った死」だ。それはペスト蔓延期の「矢のように襲う死」から時が経ち、牛のごとくゆっくり着実に死が訪れることを示している。

図10.盲目の舞踏(ピエール・ミショー詩) 15世紀後期 フランス ジュネーヴ大学図書館所蔵写本 ms.182,fol.198v.

 12世紀、フランスはシャルトル大聖堂の学問所を率いたベルナルドゥスという人物がいた。彼は、私たちは巨人に肩車されているように遠くまで見渡せる、と書き残している。歴史という巨人を知れば知るほど、私たちはその知恵の蓄積の上に立って、先々を観、予見することができる。未来を知るためには過去を知るに如くはない。

 コロナ禍の只中にあって、ただ、「ステイホーム」「ソーシャルディスタンス」という言葉だけを鵜呑みにするのではなく、何より歴史認識と批判精神をもってこのカタストロフを乗り切る、否、カタストロフのなかで生きることが大切であろう。そして言葉が乱れる時は過去においてもひとつの歴史が終わる時、ということも改めて心に留めたい。果たして、私たちの前には暗い深淵が口を開けているのだろうか、はたまた空蝉のごときルネサンスの扉が開かれるのだろうか。自分とは何か、人間は長い歴史のなかで何をしてきたのか、それが問われているのである。

*1──G. ボッカッチョ著、柏熊達生訳『デカメロン〈上〉』 (ちくま文庫)、筑摩書房、1987年、pp.19~20、p.26
*2──ピエール・シャンピオン著、佐藤輝夫訳『フランソア・ヴィヨン 生涯とその時代〈下〉』、筑摩書房、1971年、p.311
*3──佐藤輝夫訳『フランソア・ヴィヨン全詩集』、河出書房新社、1976年、p.225
*4──ピエール・シャンピオン著、佐藤輝夫訳『フランソア・ヴィヨン 生涯とその時代〈上〉』、筑摩書房、1970年、p.493
*5──ガイウス・ペトロニウス著、国原吉之助訳『サテュリコン―古代ローマの諷刺小説 』(岩波文庫)、岩波書店岩波書店、1991年、p.57
*6──松平千秋訳『ヘロドトス 歴史(上巻)』(岩波文庫) 、岩波書店、1971年、p.118