ミヤギフトシ連載10:リービ英雄の台湾、その見果てぬ家郷

アーティストのミヤギフトシによるブックレビュー連載。第10回では、台湾南部の島・小琉球と、リービ英雄の小説『模範郷』で描かれる台中の模範街を訪ねながら、すでに失われてしまった「故郷」を留めておくための作家の想像力に迫ります。

台中にて、花と高層ホテル 撮影=ミヤギフトシ
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リービ英雄『模範郷』 小琉球の郷と台中の郷 ミヤギフトシ

2016年8月、台湾南部の島・小琉球に向かった。台湾は2度目で、前回は2012年、台中に滞在した。今回の旅は、11月の「KYOTO EXPERIMENT」でのグループ展「世界の向こう側へ」(企画:松根充和)に出展する作品の制作のため。この展示で僕は、台湾にまつわる作品を制作しようと考えていた。前回台中で撮影した、台湾人男性が三線を弾きながら沖縄民謡「安里屋ゆんた」を歌う映像を中心に、台湾と沖縄の距離やことば、その翻訳にまつわるインスタレーションにしよう、と。東京から台北まで飛行機で飛び、台北から台湾新幹線で終点の高尾まで、高尾からタクシーで東港へ向かい、フェリーに乗って30分ほどで小琉球にたどり着く。

小琉球の海 撮影=ミヤギフトシ
小琉球の資料館 撮影=ミヤギフトシ

沖縄のかつての名を未だ有するその島で何を発見することができるのかと期待していたけれど、沖縄的な何かが見つかるわけでもなく、そこは背の低い旅館が立ち並ぶ静かな島だった。自転車で島をまわっている際に見つけた資料館はすでに閉鎖されていた。夕方からは突然の大雨で、びしょ濡れになりながら自転車で宿まで戻る。窓の外、目の前には海が広がっていた。波の音を聞きながらビールを飲み、暗い空に流れる雲を見ていると月が顔を出し、海を照らした。

小琉球、民宿の窓から 撮影=ミヤギフトシ

満月だった。去年の今頃は沖縄で満月を眺めていたような気がする。それともあれは東京だっただろうか。その満月を撮影して、《ロマン派の音楽》という映像作品に使った。そんなふうに思い出しながら、山口淑子の「夜来香(イエライシャン)」のメロディーが頭に浮かぶ。ベン・ウィショー主演の映画『追憶と、踊りながら』(ホン・カウ監督、2014年)で流れていた曲。クメール・ルージュの脅威から逃れるように英国に亡命した中国系カンボジア人女性ジュンと彼女の息子カイ、そして息子のボーイフレンドであるリチャード(ウィショー)の物語。カイは、自分がゲイであることを母親に伝えられぬまま、交通事故で死んでしまう。物語はその後のリチャードとジュンの交流を描く。ジュンとリチャードは互いの言葉を理解できないので、そこには常に通訳がいた。それでも最後、ふたりはそれぞれの言葉で、愛するものの記憶を語りあう。訳者を介さず、相手が理解できないことばで、失われた存在について語る。ジュンが失ったのは息子だけではない。彼女は、故郷に帰ることもできない。

模範街、夕暮れ 撮影=ミヤギフトシ

翌日、台中に向かった。リービ英雄が『模範郷』で書いた、模範郷と呼ばれた台中の地区、かつて彼が少年時代を過ごしたその町を歩いてみたかった。カリフォルニアで生まれたリービは、父の赴任先である台中で1950年代の数年を過ごした。そこは、日本人によって建てられ、1945年まで日本人が住んでいた町。梅川と呼ばれる川で、向こう側と区切られた場所。家では英語の会話が交わされ、来客があれば國語(中華民国語)が飛び交う。そして塀の向こうからは、訛りのある「方言」が聞こえてきた。彼は52年ぶりにその土地を訪れ、降り立った新幹線の台中駅では、その方言が「ぼく」を取り囲む。

「模範」という近代の発想に、「郷」。故郷の「郷」であり、桃源郷の「郷」でもあった。満州の町と同じように、近代主義にユートピアの夢想。模範郷なのだ。だからこそ五十年間、そこはぼくの記憶の中で生きてきた......。 リービ英雄『模範郷』(集英社、2016年)より
模範街、標識 撮影=ミヤギフトシ

台中に着いて、グーグルマップに表示された模範街、モーファンストリートを歩く。北端から南端まで10分ほど。いくつかの路地に入りながら、1時間ほど歩き回る。いくつかの小説で、リービは台中やそこを去るまで過ごした家のことを書いてきたけれど、実際に台中を再訪することはなかった。むしろ、避けていた。彼の記憶に残る模範郷はすでに存在しないことが、訪れなくてもわかるから。かつて台北から台中までは特急で4時間強。それが今では台湾新幹線で1時間ほど。街並みはすっかり変わり、訪れても残念な気持ちになってしまうだけだろう。家や故郷が失われてしまったことを。「私たちの台湾はもう台湾にはない。むしろ大陸の、しかもかなりの奥地まで行けばまだかいま見えるかもしれない」と、台中の宣教師学校に一緒に通っていたかつてのアメリカ人クラスメイトが言った言葉に彼は苛まれ続ける。そして模範郷があった場所に立ったとき、その不安が的中したことを彼は実感してしまう。立ち並ぶマンション群に、かつての郷はない。それでも、マンションとマンションの間の細い路地の先に、記憶の中にある塀とよく似た石造りの塀、そして細い側溝を見つける。ここだったと「ぼく」は直感し、同時にその家が失われたことを知る。彼の頭の中に、「I give to you, and you give to me」という英語の歌詞が思い浮かぶ。彼はかつて住んでいた家の庭で土遊びをしながら、母が居間で流す女性歌手によるレコードを聴いた。

レンガの壁と細い路地 撮影=ミヤギフトシ

なんの歌だろう、とYouTubeで調べてみると、ビング・クロスビーとグレース・ケリーのデュエット曲「True Love」のようだ。でも曲の大半はクロスビーが歌い、最後に少しだけケリーが一緒に歌う。男の声が「ぼく」の記憶から消されているのだろうか、それとも、女性歌手のみの版だろうか。その秋、父親の不倫が原因で両親が離婚し、家族は台中を、模範郷を離れる。「ぼく」と両親、そして彼の弟の4人が集まることは、それ以来なかった。自分の家がなくなったと実際に知った「ぼく」は、打ちひしがれながらも次の目的地に向かう。孫立人将軍記念館。大陸から台湾に渡り、失脚した将軍が幽閉されていた日本式家屋をそのまま残したもの。その間取りを見て、「ぼく」は気づく。自分の住んでいた家とまったく同じ間取りであると。そこでまた彼は、あの歌を思い出す。

孫立人将軍記念館 撮影=ミヤギフトシ

かつて大日本帝国時代に日本人居住区として日本人向け建築様式で建てられ、1945年にその住人がいなくなり、アメリカ人らによって「Model Village」と呼ばれるようになった地区。地区の外に出たら、石を投げつけられたりもした。家族が幸せだった、最後の数年。そこで育ったアメリカ人の少年が成長し、日本で、日本語で小説を書くことになる。それから50年、失われた故郷のことを考えながらも、足を向けることがなかった彼が見つけた、「家」とまったく同じ間取り。その家を見てみたいと思い向かうと、その門は固く閉ざされている。iPhoneで調べてみると、隔週末しか開いていないようで、その日は休館日だった。目の前に旅の目的地の一つがあるのに......。そう思いながらも諦めて再び町を散策する。ところどころ、煉瓦造りの壁があり、上に尖ったガラス片が固められている。どこかの路地奥にある石造りの壁も、結局それらしいものは見つけられなかった。

模範街、レンガの壁 撮影=ミヤギフトシ
塀の上、泥棒よけ 撮影=ミヤギフトシ

目的を失ってふらふらと模範街を歩きながら、不思議な既視感を覚えた。この通りを、歩いたことがあるような気がする。そして思い出す。5年前、台湾人の友人ふたりとともに、カフェに向かって歩いたのは、このような道だったのではないか。そのうちのひとりに「安里屋ゆんた」を歌ってもらい、それからふたりに三線の弾き方を教わったカフェは、このあたりだったのではないか、と。そのときのことを思い出しながら(ぽろ、ぽろ、とおぼつかなく音をつなぐ僕の三線を上手ですね、と褒めてくれた)、そのカフェを探すけれどめぼしい場所は空き地になっていた。確かなことはわからず、夜、そのうちのひとりと会う約束をしていたので、聞いてみた。あのお店なくなっちゃったんです、とその人は言った。三線を弾いてくれた彼とは別れたそうだ。果たしてあの場所だったのだろうか。確かめたいけれど、引っ張って連れていくわけにもいかず、食堂で餃子を食べて、かき氷を食べ別れて、模範郷がよく見えるだろうと部屋をとった高層ホテルに戻った。翌朝、窓から外を眺める。小説の中で語られていたのどかな田園風景は見当たらない。都市が広がっていた。この高層ホテルも、眼下の町に住む人々には、もしかしたら疎まれているのかもしれない、そんなふうに思った。

模範街の空き地 撮影=ミヤギフトシ
ホテルから模範街を見下ろす 撮影=ミヤギフトシ

小琉球は行政区分では琉球郷となる。そこは、沖縄とはまったく違う場所だった。でも、まったく違う、というのは僕自身が「琉球」を知らないからにほかならない。僕は日本復帰後の沖縄しか知らない。そして僕が知っている沖縄も、変化を止めようとしない。海洋博記念公園も、那覇タワーも、那覇国際プラザも、OPAも三越もない。かつての僕を形づくったはずの要素はほとんどなくなった。幸せな子供時代を台中で過ごした「ぼく」や彼の家族も、そして彼ら以前にいた日本人も、一時的な逗留者にすぎない。彼らが去った後も人々は暮らし、土地は発展してゆく。当たり前のことだった。重ねた時間は違うけれど、僕もまた「家」の形を自分の中に留めるために文章を書き、作品をつくっているのかもしれない。

5年前に台中で三線を習ったとき、東京に帰ったらすぐにでも三線を買って練習する!と僕は宣言したことを思い出す。結局、未だそれはできていない。すっかり遅くなったけれど、その宣言を守って三線を買ってみてもいいのかもしれない。そしていつか、琉球郷で「安里屋ゆんた」でも弾いたら、自分にも教えて、なんて現地のひとに言われるかもしれない。

模範街のファミリーマート 撮影=ミヤギフトシ

PROFILE

みやぎ・ふとし 1981年沖縄県生まれ。XYZ collectiveディレクター。生まれ故郷である沖縄の政治的・社会的問題と、自身のセクシャリティーを交錯させながら、映像、 写真などを組み合わせたインスタレーションによって詩的な物語を立ち上げるアート プロジェクト「American Boyfriend」を展開。近年の展覧会に、「他人の時間」(2015年、東京都現代美術館ほか)、「六本木クロッシング2016展:僕の身体、あなたの 声」(2016年、森美術館)など。豊田市美術館でのグループ展「蜘蛛の糸」(10月15日〜12月25日)、「KYOTO EXPERIMENT」でのグループ展「世界の向こう側へ」に参加。

http://fmiyagi.com