松井茂 いまあらためて“音楽”を考える
蓮沼執太さま
いきなりお詫びから。キャッチボール、遅れましてたいへん申し訳ございません。気がつけば、蓮沼くんに「往復書簡しましょうよ」と誘ってもらったのは一昨年前のことですね。さらに業を煮やしたのだと思いますが、昨年のうちにキャッチボールを投げてもらっていたのに……。返球できず、お恥ずかしい限りです。
遡れば『美術手帖』でメール・インタビューをさせてもらって(2015年5月号)、その後NYで坂本さんと対談してもらったり(2017年5月号)、そんな経緯もありました。考えてみると、他にもナディッフやスパイラルでもトークをさせてもらっていて……。
いきなり往復書簡をと誘われて、すぐに始められそうだと自分でも思いつつ安請け合いしたんですが、蓮沼執太という芸術家について、なにかクリティカル・ポイントを持って臨まなきゃみたいな気負いも詩人・松井茂にあるわけでね、それなりに悩んだと言わせてもらいたい(笑)。
で、結論としては、まぁ、そんなことを考えているうちに、どんどん蓮沼くんのパフォーマンスや、展示、新譜もリリースされて、ニューヨークでの展覧会もカタログになるし、端的にその展開に追いつけない。もう、これは日常会話で始めるしかないな、と。批評から少し離れ、むしろ蓮沼くんの変化に身を委ねて、その時々の話題を書いてみようと覚悟を決めた次第です。
蓮沼くんもご存知の通り、メール・インタビューした時期に重なりますが、2015年4月から、情報科学芸術大学院大学[IAMAS]で仕事をするようになり、岐阜県大垣市に引っ越しました。東京圏を離れる生活は初めてのことなのですが、いろんな人にこの引っ越しをあっさり決めたことに驚かれて、まぁ、東京でずっと暮らしてきた人間にとっては、代々住んできたけど地縁的なつながりなんてどうってことないわけで、文字通りあっさりした気分だったんです。僕の大好きな東京は、誰の故郷でもないと思うし、誰の故郷にでもなれる、虚像的な点です。東野芳明ふうで古い言い方だけど。
そんなこんなで、この「あっさり」した後で気がついた欲求があるんだけど、それが「いまあらためて“音楽”を考える」という気分なのです。
軽々しく言うなと突っ込まれそうですが、僕は引きこもりたい人なんで、本読んで音楽聴いて、詩を書いているだけで過ごしたいから、大垣が合ってるんですよ。東京にいると、興味のない展覧会にも回らなきゃいけない強迫観念に駆られるじゃないですか、なんて言ってはいけないけどね。だから東京でいかに本を読んだり音楽に浸る時間が奪われていたのかと気づくわけです、大垣に引っ越してから。もちろん自分の意思でそういう生活していたわけだから、東京のせいにしませんけど、なんか現代美術やメディア・アートに無理してた気がしています(苦笑)。
でも東京で美術に関わる仕事をしていると、本を読んだり音楽に浸る時間がどんどん奪われて、数ある展示を見なきゃいけない。もっとも読書と音楽が自分のなかで減じていたことに気づいたのは大垣に引っ越してからなんだけど、まぁ東京のせいにしてはいけないか、もちろん自分の意思でそう生活していたんだけど、現代美術やメディア・アートに無理してたと気づいたわけ。
もちろん、新しいアートの動向に接することがキライなわけじゃないけど、東京の内輪なポジション・トーク的コミュニケーション(とか言うと非難を受けそうですが)、を反省したんですよ。程度問題かも知れないけど、大垣に来て他者とのコミュニケーションが減って、東京ではそういう機会が多かったんだと気がついたんです。自分の関心だけに沈潜したいな、と考えるようになったわけです。
もちろん大垣にいるからといって情報が途絶するなんて時代じゃないから、あくまでチェックしたうえでのワガママな引きこもり。それで音楽を聴く時間が増えてきたら、コンサートホールや、ライブハウスで孤独に聴いてた音楽は、東京でも最高だったなと(美術もそうなんですけどね)。
こうした本来の自分の関心である音楽に戻ることができたきっかけは、大垣であると同時に、蓮沼くんへのインタビューだったと思うんです。蓮沼フィルについて考えて、エドワード・サイードとダニエル・バレンボイムの対談本を引き合いにしたことがありましたね。スパイラルのトークもそうでした。そうしているうちに、自分の考えが背景にしているサイードを再発見したんです。文学研究者としてのサイードの前提として音楽論を中心に考えると面白いと僕は思ってきたんですが、『音楽のエラボレーション』(みすず書房、1998[原著は1993])を馬鹿のひとつ覚えのように繰り返し読むようになりました。
僕が音楽をどう聴いてきたのかを補足しておくと、クラシックをかなり聴きこんでた80年代後半から90年代前半の高校生くらいが根幹で、坂本龍一を分岐点に聴く音楽の分野が開けたんですね。浅田彰『ヘルメスの音楽』(ちくま学芸文庫、1992)を読んで、『ユリイカ』(青土社、1995年1月号)のグレン・グールド特集とか「ピエール・ブーレーズ・フェスティバルin東京」(1995年)あたりに打ちのめされて、邦訳が出た『音楽のエラボレーション』というのが自分の精神を形成してんじゃないかと思うのね。
いまだに変わらないのですが、東京という都市は、本当に多くのコンサートホールがあって、その数より多いオーケストラが夜毎定期演奏会を催し、世界中から引きも切らずに演奏家が来にしてきたというか、いまも続いてますよね。僕個人は、90年代の東京でそういう恩恵に浴していた記憶が、なんか大垣で、ブワッとフラッシュバックしたんだよね。
近年僕は、音楽を聴くことの気持ちよさみたいなことをなくしていたんですよ、たぶん。それはひょっとしたら震災も関係あったのかもしれない。そんななか、蓮沼くんの音楽を聴いて、こんなひどい時代のなかで、音楽が気持ち良いって感じさせてくれたのは、すごいことだと素朴に思うんです。社会から目を背けているという意味じゃなくて、嫌な気持ちがしない。気持ちが良い芸術って、批評を放棄しないと言えないことかもしれませんけど。
大垣で残念なことは、どんなジャンルであれ、音楽の生演奏に触れる機会がとにかく少ないことで、むしろ音楽は東京の「ローカル」な特性なのか?って振り返る機会にもなっています。
YouTubeやらiTunesやAmazonのお陰で、メディアを介した音楽体験はメディア・イベントとしてデフォルトになっていることを考え感謝してるんですが、パフォーマンスの意味を問い直されるよね。もっとも、IAMASで授業を終えて東京に駆けつけ、コンサートを聴いて、終電で帰られるのでそんなこともしていて、僕には圧倒的に大事な時間なんですが、そういう価値観を持つ人は稀なのかもしれない。
いずれにしても蓮沼くんとの対話や、蓮沼フィルの演奏会をきっかけに、20年ぶりくらいに展覧会よりもコンサートに熱心になってる感じ。僕は何に魅了されているんだろう?ということを考えるのが、先ほどフラッシュバックと書いたけど、たんにそれだけじゃない現在性として気にしてます。
その文脈で考え直してるのは、活動をメディア空間に限定したグレン・グールドのことです。サイードが最初に音楽批評を書いたのも1982年に亡くなったグールドについてだったりするんですが、僕がクラシック聴き始めた頃、そのCD化が終わり、今度はLDでグールドが制作したテレビ番組がリリースされて、NHKで特集番組が放送されたりしてた。何度目かのブームだったはず。渋谷系同様、トレンドでした(苦笑)。それで、グールドとゴダールを取りあえず話題にすることが文化人のポジション・トークみたいだったので、僕はそれに辟易して聴かず嫌いしてたの。
改めて2019年にメディア・パフォーマンスとして、読み直して聴き直し、見直してみると面白いのね。コンサート帰りの終電で、1960年代にライブを止めたグールドの番組と、つい先日の蓮沼くんのライブをYouTubeで交互に見たり聴いているのが妙なんだよね。
というわけで、蓮沼くんと大垣を契機に、サイードとグールドにのめり込んでいます。でもって、さらには音楽のない大垣で、蓮沼執太になにか音楽をしてもらいたいというたくらみをはじめているわけで、それもこの往復書簡で告知&報告していきましょう。長くなりすぎてもなんですから、ひとまず、プレイボールということで!
エレーヌ・グリモーとピエール・ブーレーズによるバルトークの「ピアノ協奏曲第3番」を聴きながら。
2019年1月13日 大垣ではなく、じつは東京、竹橋より
松井茂