カント美学の足跡を学ぶ
美学美術史を学ぶ者であれば一度は目を通しておきたい必読の古典、その筆頭にカントの『判断力批判』(1790)が挙げられることは異論を俟たないだろう。しかし、近代美学の礎を築いたこの書物を端から端まで精読するのは決して容易ではない。数々の美学用語を原義に沿って正しく理解し、かつ論理の骨子を無駄なく取り出す作業は、初学者でなくとも多くの労苦を伴う。学問の道が長く険しいのは前提だとしても、それなりの重みを持つ古典を読みこなすには先達による優れたガイドが必要だ。
その意味で、美学者の小田部胤久が大学の講義ノートをもとにつくり上げた本書は、『判断力批判』で展開されている議論を少しでも理解したい読者にとって、洞窟の闇を照らす松明のような書物となるに違いない。まず、懇切丁寧に組み立てられた章構成に舌を巻く。10の章は『判断力批判』第一部「美的判断力の批判」の構成にそのまま対応しており、すべての章にA、B、Cの節が付く。Aの節では原典に基づいた読解でカントの論理を明快に再構成し、Bの節ではその議論が起こった時代背景や歴史的文脈を紹介し、Cの節ではその章で展開されている論題や概念に影響を受けた20~21世紀の思想家たちのカント理解を概観するという案配だ。したがって、本書の価値はカント美学の腑分けという点のみに尽きるのではない。本書はいわば、カント美学がいかなる知の土壌から生まれ、後続の世代にどのように継承されたかまでを案内するインデックス機能を備えた重層的な概説書なのだ。
「美的」とされるものへの趣味判断の分析、カント以前から以後まで連綿と続く崇高論の系譜、「技術」や「天才」の概念とも関わる芸術論など、美学美術史の基礎知識となる主題の数々が貴重なのは言うまでもないが、これらの議論にとっつきにくさをおぼえる読者であれば、Cの節でカント美学の応用編からふれてみるのもよいだろう。例えば「無関心性」としばしば関連して語られるレディメイドを発明したデュシャン、カントの共通感官論を独自に進化させたドゥルーズ、カントに拠りつつ現代の芸術論を築き上げたグリーンバーグなど。彼らの議論を追うことで、カント美学に伏在する複数の読解可能性が開かれてきたさまを味わえるはずだ。
原典を精読できるに越したことはないが、ある思想が後年の解釈によってどのように受け止められ、時に変形や曲解を被りながら命脈を保ってきた歴史を知ることも大切な作業だ。古典の砦に挑む道はたったひとつでないことを本書は教えてくれる。
(『美術手帖』2020年12月号「BOOK」より)