キュレーションの現場の所在
本書は、1980年代以降の日本のアートシーンに「キュレーション的転回」を見出しながら、座談会を中心に年表や書き下ろし論考、翻訳論文などを通じて掘り下げていく。それらは座談会の登壇者たちの生きた時代の気分を追体験させると同時に、アーティストやデザイナーなどによるキュレーションの歴史を学ぶ機会にもなるものだ。
本書のなかで重要な客観性を担っているのはペーター・ヴァイベルの論考だろう。これは「書き換え」を鍵語としたメディア論だ。彼は西洋が立ち上げた近代のシステムに対する書き換えのバリエーションを、20世紀におけるアートのいくつかの転回を踏まえながら要約する。そしてグローバルな変化によって、アートをはじめとした固定されたシステムに対する書き換えのプログラムが実行され、ローカルな地域の再評価がなされることにふれる。
それは座談会のなかで川俣正が、アートの実践を「価値のテロリズム」と名指すことと意味を同じくしている。だが座談会登壇者が一枚岩なわけではない。例えば椿昇が自らをメディエーターと呼ぶとき、それはひとつのメディアとして彼自身が自らの身体を認めることを意味する。書き換えのプログラムを実行する書き手と、すでに書かれていたもの、そして書き換えられた結果がひとつの身体の上で混ざり合っていくのだ。この傾向は椿だけでなく、「アートに縛られない、『許されている現場』」「計画を作らない」(藤浩志)、「観客のなかにこっちが入っていく」(日比野克彦)などという言葉にも通底したものに思える。だがひたすら何かに失望する川俣が語るのは、自らの身体の外部に位置するモノたちとの隔たりについてだ。ここには立場の違いがある。
また本書を一読して後ろ髪を引かれるのは、中村政人と村上隆の不在だ。2人は本書に収録された年表におけるキュレーション回数でトップであるとともに、アーティストでありながら展示施設という不動産を維持、運営してきた。この不在を介して本書があらわにするのは、書き換えのプログラムとしてのキュレーションの現場、そして他者の所在の複数の在り方である。だからこそ読者には何かを選択する強い意思が求められるだろう。
(『美術手帖』2020年8月号「BOOK」より)