スポーツとアートが開く、新たな議論の扉
スポーツ/アート。この魅力的なカップリングにまず心をつかまれてしまう。オリンピックスタジアムのデザイン、戦前日本のスポーツ写真やスポーツ漫画映画、果ては昨今耳目を集めているeスポーツまで。本書で繰り広げられるのは、異なる専門領域で活躍する識者たちの、スポーツ/アートをめぐる知の競演である。
まず、中尾拓哉のイヴ・クライン論。長年、柔道に情熱を注いできたクラインは、柔道の精神・身体観や「形(かた)」が持つ力学を制作に反映させてきた。クラインによる柔道のダイアグラムなど貴重な資料の紹介も興味深いが、モノクローム絵画や「人体測定」シリーズといった代表作を、柔道経験との結びつきのもとに刷新していく考察が何よりもスリリングだ。
他方、スポーツの世界につきものなのが政治の介入である。オリンピックなどはその最たる例であり、渋谷哲也が分析するレニ・リーフェンシュタールの『オリンピア』、暮沢剛巳が言及する新国立競技場問題などは、政治、倫理、テクノロジーなど様々な見地から検証されるべき論点をはらんでいる。美やアートの力をも動員するスポーツの祭典=オリンピックに直面したとき、美術家はいかに政治的文脈から批判的距離を取りうるのか。こうした問題に関わるという意味で、鈴木俊晴によるゲルハルト・リヒター&ブリンキー・パレルモ論は出色の出来だ。鈴木はリヒターとパレルモが提案したミュンヘン・オリンピックのスタジアム装飾プランを主に取り上げ、内/外の諸力に応答する彼らの「バランス」感覚が機能していたかを冷静に読み解く。
最後にふれておきたいのは原田裕規によるVAR試論。近年、サッカーの試合のヴィデオ判定として導入されたVARは、高度な技術に支えられたマルチアングルによって私たちの観戦体験を変容させた。原田が論のなかで示唆するように、その「全能の眼」のありようは、ドローンを駆使した21世紀の戦争技術へと連なるものだ。スポーツのその先に構える戦争─歴史的にも根深い両者の類縁性を忘れることはできない。私たちはスポーツ/アートの蜜月関係を吟味すると同時に、2つの陣営が交差したときに招き寄せる暗い文脈をも考えなければいけない。
スポーツとアートをつなぐスラッシュはそれぞれのジャンルの位相の違いをも表しているのかもしれないが、しかしそこでは断層をはらむがゆえのアクロバティックな連想や比較検証が誘発される。本書を契機として、異種混交の妙技が飛び交うさらなる議論を期待したい。
(『美術手帖』2020年4月号「BOOK」より)