プレイバック!美術手帖 2005年6月号 特集「物語る絵画」

『美術手帖』創刊70周年を記念して始まった連載「プレイバック!美術手帖」。美術家の原田裕規がバックナンバーから特集をピックアップし、現代のアートシーンと照らし合わせながら論じる。今回は2005年6月号の特集「物語る絵画」を紹介。

文=原田裕規

2005年6月号特集「物語る絵画」内、鴻池朋子作品のビジュアルページより(P19~20)

具象絵画ブームを振り返り、絵画の「語り」を再考する

 これまで『美術手帖』では、とくに1990年代以降、幾度となく具象絵画にスポットを当てた特集が組まれてきた。2007年には、そうした流れが凝集する一地点として、松井みどりの企画による「夏への扉─マイクロポップの時代」展が開催。本特集は、その企画前夜にあたる05年に組まれたもので、マイクロポップ的な──私性に根ざした小さな物語的想像力をドライブさせた──作家たちが多く紹介されている。

 そのいっぽうで、同じ特集のなかに、そうした動向を冷ややかにまなざす視点も存在していた。例えば椹木野衣は、寄稿文のなかで、かように「小さな物語」的な想像力を駆使した具象絵画に対して、「物語のガレージ・キット」という厳しい言葉を用いて批判している。しかしその際に引き合いに出されたピーター・ドイグは、今年に入り東京国立近代美術館で大規模な個展が開催されたばかり。こうした具象絵画の傾向はいまもなお根強い人気を保っている。

 特集内でもっとも大きく取り上げられている鴻池朋子も、20年6月から10月にかけて、アーティゾン美術館で大規模展示「鴻池朋子 ちゅうがえり」を開催している。そして、両者の作品はともに「物語」という言葉で括られているものの、そのあいだには大きな隔たりが存在しているのも確かだ。その最大の溝は、鴻池にとっての「物語」の多くが、文字で書かれた物語よりも口で語られた物語を指しているという点にある。例えば鴻池は、市井の人々が体験した物語を収集するプロジェクト「物語るテーブルランナー」のなかで、「呼吸とともに、目の前で生まれてはすぐ消え去っていく『語り』という行為にのみ注目」し、「そこにこそ、人という動物の、重要な芸術性が潜んでいる」のではないかと述べている(同展パネルより)。

 特集のなかで紹介されている「物語」の多くが、いまから見るとどこか時代を感じさせるものになっているのに対して、鴻池の物「語り」は、時代を超えて、いまの時勢にこそ訴えかけるものになっているように感じられる。

 思えば、2020年の日本がこれほどまでに「語り」を軽んじる国になるとは誰が予測しただろうか。施政者が公然と発するようになった「その指摘は当たらない」といった「話法」は、いまやネットの隅々にまで浸透し、日々「語り」の意味を毀損し続けている。だからこそ、その喪失を補うためにも、私たちは「語り」という行為に再び意味を込めたくなるのではないだろうか。「物語」という名詞ではなく「物語る」という動詞に着目することによって、その今日的な意義が再び浮かび上がってくる。

『美術手帖』2020年12月号より)