アートと接近した90年代のマンガに見る、多面的な「性」
80年代から90年代にかけて、サブカルチャーとハイカルチャーの垣根を疑い、現代美術の領域でサブカルチャーを扱おうとするうねりが現れ始めた。このうねりはいっぽうではスーパーフラットとして、他方ではカオス*ラウンジとして、ゼロ年代と10年代を席巻する大きな波へと成長。その余波はいまも続くが、改めてその
そうした潮流のなかに位置付けられる本特集は、『美術手帖』が初めてマンガをテーマに編んだ特集である。じつに多くの論考が収録されているなかでも、ひときわ新鮮に感じられるのは、美術評論家・樹村緑の少女マンガ論だ。萩尾望都、大島弓子、山岸凉子、竹宮惠子などの少女マンガ家の作品に言及しながら、そこに登場する「両性的美少年」「同性愛者」「芸術家」といった主人公たちが、一元的な性の役割に束縛されない存在として、いかにして当時の少女たちから支持を集めていったのかが考察されている。
興味深いのは、その過程で先述のマンガ家たちが「独特の語りの形式」を獲得していったと指摘されていることだ。吹き出しなしに書き入れられた言葉(声にならない言葉)、物語とは無関係に挿入される装飾、大胆な省略が表現する独特の時空間などは、所与の性的役割には収まりきらない繊細な心理描写を可能にした。またマンガ評論家の伊藤剛は、マンガを排斥する「大人」や「良識」がいなくなってもなお、それに対抗する意識がマンガの言説に残存したこと──それによって「文学的」などの言葉が安易に使われながら、ハイカルチャーに対する嫌悪感が表明されるというねじれが存在することになったことを指摘している。
これらの考察から浮かび上がるのは、マンガに於ける/対する語りの政治性である。その後、樹村の考察した少女マンガの実験は、90年代に入ると、岡崎京子による「遊びの時間の終焉宣言」(『唇から散弾銃』)というかたちでその終わりが告げられた。また伊藤の指摘したねじれは、最近ではアートや「良識」に対するヘイトというかたちで、文化間の闘争を超えた巨大な戦線へと拡大している。
しかしそのような状況だからこそ、樹村の考察した「語りの形式」には振り返るべき可能性があるのではないだろうか。なぜならそれは、性の一元化に対抗する多面的な「語り」そのものだったからだ。そして、かつて少女マンガで描かれた「芸術家」は、そうした多面性(多面的な性)を象徴する存在だった。そこには、現代の(批評家やキュレーターも含めた広義の)「芸術家」に対する批判意識さえ含まれているように思われる。
(『美術手帖』2020年10月号より)