他者としての「わたし」が求める美術館とは
2019年以降、「表現の自由」は日本の美術界が共有するキーワードのひとつになった。そして20年に入ると、コロナ禍の到来により各地の美術館はまたたく間に休館を余儀なくされ、いわば「表現の場」そのものが危機にさらされるようになった。
しかし、そうした「危機」は何もいまに始まったものではない。19年10月、台風19号の被害により川崎市市民ミュージアムが甚大な被害を受けたことは記憶に新しい。また東日本大震災では、リアス・アーク美術館をはじめとする各地の美術館も大きな被害を受けている。つまり、いまわたしたちが直面している問題は、美術館という制度の根幹を支える「永続性」が揺らぎつつあるということに収斂されている。そして本特集は、そうした「永続性の危機」にいち早く焦点を当てたものだった。
本特集では、第一に芦屋市立美術博物館の存続問題が取り上げられている。この問題は、市の財政難を理由に「民間委託先が見つからなければ美術館を休館・売却する」という指針が打ち出されたことに端を発するもので、市内在住の映画監督・大森一樹がその騒動を渦中からレポートしている。またその視線を全国に広げ、「00年以降の開館・閉館状況」「全国85美術館レッド・データ」などの情報も掲載。さらに、青森県立美術館、国立新美術館、金沢21世紀美術館などの新設美術館の開館前状況も取材されている。
ここで注意すべきことは、横須賀美術館の開館に対して地域社会から起きた反対運動がレポートされているように、必ずしも美術館の設立がすべての人々から無条件に受け入れられていたわけではないということだ。日頃から美術に慣れ親しんでいるわたしたちは、「美術」や「美術館」を手放しで「善きもの」ととらえる傾向がある。しかし、必ずしもそれはすべての「わたしたち」の価値観ではないということを決して忘れてはならない。
美術(館)の「永続性の危機」に直面したわたしたちが考えるべきことは、本特集の印象的なタイトル「わたしがほしい美術館、いらない美術館」にある「わたし」とは誰なのかを、いま一度とらえ直す作業にある。美術館を支える公共という概念には、相互に理解することが難しい他者としての「わたし」の存在が前提とされている。そして、そうした異なる「わたし」との共生は、(疫病、人間、自然という枠組みを越え)コロナ禍、あいトリ、3.11など、異なる問題を貫通するテーマにさえなりうるのではないだろうか。すなわちいま真に問い直されているものは、他者性を排除し「純粋なもの」を志向しがちな
(『美術手帖』2020年8月号より)