自然と人間の関わりを描く
会場となるThe Terminal KYOTOは、呉服商兼住居だった町屋をリノベーションした2階建ての建物だ。靴を脱いで中に入ると、かつて暮らしていた誰かの気配がひっそりと漂う。この親密な会場の最初と最後にあらわれるのは、宙宙(チュウチュウ)による水や砂、流木、時計や鏡を使ったインスタレーションである。ものとものとのあいだには小さな磁石が置かれ、わずかな磁気の作用によって動いたりかたちを変えたりと、見えない力で互いが微細に作用しあう。彼女の作品は構成要素となる素材ひとつひとつが小さく、脆く、繊細だ。そのため鑑賞者は自然と身をかがめ、目を凝らしながら作品のなかに生まれる関係を注意深く観察することになる。とくに地下の防空壕の展示では、水の入ったガラスを中心に置き、片側には小さく盛られた火山灰を点々と、もう片側には骨や落ち葉といった生命の遺物を一列に並べることで、小さなスケールのなかに大きな生の循環を想起させる空間をつくった。


方巍も自然と人間との関わりをテーマに、強いエネルギーを放つ絵画を描いた。壁一面ほどある大きな絵の中では、広い空の下で木の枝が力いっぱい自由に伸びている。生い茂る草むらの上には、寝そべる女性と、腕を上げて後ろを振り返る力強い男性の姿がある。この絵のなかでは、植物も人間もみな風のようなエネルギーに包まれている。この隆々とした男性は、自然と共生する人間像にも、その反対に自然をコントロールしようとする人間の姿にも見えてくる。

こうした矛盾や葛藤を抱えた人間という生き物を「私の身体」に引き寄せて肯定するのは、パフォーマーのUMAである。掛け軸のような縦長のスクリーンには、何重もの衣を纏った作家自身の姿が映る。彼女を覆うのは、柔らかく着心地の良い衣ではない。中国宣紙や蜘蛛の糸、穀物、刀剣などの金属や泥、長い髪の毛といった、不快で固く冷たく、ごわごわしたものだ。皮膚に危害を与えるかもしれない幾重もの衣を、作家はひとつひとつ、堂々と脱ぎ捨てる。シンプルに考えるならば、衣は社会規範や慣習、家父長制のメタファーであり、それらを脱ぎ捨てる行為は「私」を取り巻く何重ものしがらみからの解放を意味していると言えるだろう。そのいっぽう、本作でUMAは終始首から香炉をぶら下げていて、多量の煙を浴び涙を流している。容赦なく立ち込める煙は、社会の取り決めからいくら逃れようと、人は皮膚の外からつねに刺激を受けて変容する動物であることを突きつけるようだ。

