胎動による母体状の超空間
Ⅰ.
「とうとうたらりたらりらたらりあがりららりとう」。呪文のように長いタイトル、会場は歌舞伎町の、しかも能舞台...…これだけですでに異界への入り口が開いている。タイトルは、能の演目『翁』で謡われる「神歌」の冒頭部分で、プロジェクトの通奏低音となっている。意味がわからないまま、口にしてみる。流れるようでありながら一律的でないリズム、繰り返される「らり」...…抑制された抑揚が、口腔内で循環しながら流出していく。身体、言葉、呼気…...大気中に放たれる音や振動が、シテにおいてはことほぎ(言祝ぎ/呪言)として世界に発されていく瞬間であるだろう。
能は日本を代表する伝統芸能のひとつだが、そもそもの由来は猿楽、つまり「ホカイモノ」としての芸能に由来する。「翁」はそのような能のなかでも根源的なものであり、「能にして能にあらず」ともされる特異な演目である。それは舞台上では、演者自ら能面を着脱するという行為に顕著である。演者は面なしで登場し、若々しく謡う。そして白い翁面を着け、ゆったりとした祝福の舞を披露したのち、面を取り退場する。続く狂言方による「三番叟」も同様に、激しい舞いの後に黒い翁面を着け、滑稽なやりとりや激しい舞の後に面を取って退場となる。
会期中に行われた能舞台で『翁』の謡とアフタートークを聴講した際に、この演目で謡われる内容が、古代の呪文や今様、アジアや日本の言葉など異質の要素で構成されていることを知る。いわばブリコラージュ的創造物ではないか。それを可能にした背景としては、例えば山崎楽堂(能楽研究者)が1世紀ほど前に「申楽の翁」で述べた「翁は翁以前の色々な芸術の断片が流れ集まってかういうものになった、即ち申楽以前の芸術の最後のものであるとします」が挙げられるだろう(*1)。
安藤礼二は『折口信夫』のなかで、こう述べている。「『翁』は鬼と一体であり、永遠の生命、『父母未生以前、本来ノ面目』を象徴する。そうした『翁』こそ、万物の中心に位置している。だから、この世界のありとあらゆるものは『翁』の分身としてあり、それゆえまた、動物・植物・鉱物など森羅万象のすべては『翁』を介して相互に密接な関係を取結び、互いに『変身』することが可能になる」(*2)。
世阿弥の女婿である金春禅竹は、『明宿集』で「翁」を生と死の境界に宿る神とし、折口信夫は、楽堂を参照しながら『翁の発生』(1928)の後半を著したという(*3)。折口は、二夏にわたり沖縄諸島を訪れ、島民の伝承に翁成立の暗示を得たとする。彼は、日本に国家以前からある常世神(とこよがみ)は「常世人」といったほうがよく、もっとも古くは「神と人間の間の精霊の一種」として海の彼方の他界からくると考えた(*4)。折口は、列島各地で見られる来訪神を「まれびと」と名づけたが、これら他界からやってくる存在は、神でもあり人でもあるとされている。
中沢新一は『精霊の王』において、金春禅竹が翁を「存在」と同義としたとし、「さてその『存在』は、わが国土の上に純粋なあらわれを、『神』のかたちにおいておこなう。そのために『存在』の根源を示す「翁」もまた、さまざまな神の姿に垂迹(すいじゃく)を起こすことになる」と述べている(*5)。
現在、全世界的には人新世、加えてポストパンデミックの時代のただなかにあり、加えて日本では東日本大震災以降の時代において、様々な困難を抱えている。「翁」という、近代化以前、それも火山性の列島に形成されたこの国の古層からの呼び声を現代の日本、それも新宿・歌舞伎町に内蔵された能舞台に召喚すること。それはこの列島ならではの磁場や芸能の根源に立ち戻りながら、近代そしてこの国を逆照射する本能的かつクリティカル(臨界的・批評的)な行為であるだろう。その切実さを感知したのは、私だけでないはずだ。
Ⅱ.
新宿歌舞伎町能舞台は、飲食街やラブホテルに囲まれたマンションの2階にある(もともと稽古場としてつくられたという)。一種の異空間ともいえる歌舞伎町に、能の舞台があること自体、現実離れして見えるが、聞けば以前から能舞台があり、その後周辺が開発されていまのようになったという。人々の欲望が渦巻く歌舞伎町にある能舞台での「翁」を念頭にしたプロジェクトは、思うに能の根源に立ち返る試みともいえる。「ホカイモノ」の世界を呼び戻し(時代を逆流させ)、大衆に根ざした両者の親和性が浮上するからである。
マンションの裏階段を上がる。玄関に入るとまず、キツネが写った福島・双葉町の県道の写真(撮影=飴屋法水)と肢体が朽ち果てる過程を描いた《九相図鑑》(鎌倉時代、作者不明)の一枚に遭遇する。現代における異界、そして異界へ移りゆく人間(人ならざるものに拡散していく)に誘われつつ、ここで白足袋に履き変えることが一種のイニシエーションとなる。
進むと、ピンクのライトで照らされた小宮りさ麻吏奈の部屋がある。畳の中央にシャーレがあり、顕微鏡越しにブルーに染まった細胞が美しい。じつはがん細胞で、それも70年以上前に子宮頸がんで亡くなったヘンリエッタ・ラックスに由来するという(*6)。小宮はまた、一般細胞を用いて描いた自身のポートレートを展示している。次の間でのピエール・ユイグの映像、廊下での展示(水場に企画・キュレーションを担当した渡辺志桜里の《水》(*7)、ミセスユキによる複数の平面作品)を経て、小さな戸を開けるといきなり能舞台となる。まるで冥界から生の世界に抜け出たかのように。
能の足拍子のように、舞台はときおり振動する。これは振動スピーカーによるもの(飴屋法水たち《足拍子》、サウンド構成=涌井智仁)だ。飴屋は、コキュレーターのひとりである卯城竜太が提案した振動スピーカーを足拍子として用いた。舞台上の「シテ」の位置で何者かが跳ねた振動(足拍子)によって、昭和天皇が崩御する間近の1分間の心拍数・呼吸数のデータをなぞったのだという。昭和末期の天皇のバイタルサイン—生死の境界域からの—が足元から突き上げるなか、舞台を降りると石垣島の特別な場所で収穫したハーブ入りルートビアが柱に取り付けられたタップから提供されている(ザ・ルートビアジャーニー《ルートビア(来夏世 kunatsuyu)》)。折口信夫の「まれびと」概念は「翁」とも強い関係を持つが、ここでは天皇という存在が、南の島々の来訪神や大地のエネルギーなど多様な起源へと拡散していくかのようである。
舞台の外の空間には、様々な作品が展開されている。小宮はかつて営んでいた花屋を装った一種のバイオラボとしての《小宮花店》(2016-2017)が上映され、そして窓からは向かいのラブホテルにピンクの窓が見え、その室内では小宮自身の細胞が培養されている(会場には入れない)。個人名を喪失しながら生き続けるHeLa細胞に出会った後、死滅する精子を大量に放出するラブホテルとそこで生かされている小宮の細胞を思うことは、非生殖的なミクロレベルの生や死の琴線にふれることであるだろう。
石牟礼道子の資料展示では、久高島の女性による祭礼「イザイホー」についての直筆原稿、会期中に一部が披露された石牟礼作の新作能『不知火』の資料に加え、愛猫のスケッチや電気釜、「魂石」と書かれたかまぼこ板など身近な事物が石牟礼の人となりを伝える。
来場者がくつろげる空間には、コラクリット・アルナーノンチャイの映像、エヴァ&フランコ・マテスによる帰宅区難区域で撮影されたパターンによる壁紙や座布団とともに、昭和天皇の通称・人間宣言(1946年)やバイタルサインのデータ(1988年9月20日〜1989年1月6日、電光掲示板)が表示されている。そして空間内でもっともバイタルな役割を担ったのが《囲炉裏(火)》で、会期を通して人々が話し飲食をする舞台となった。
第2会場は、能舞台(第1会場)で入手した「地図」でのみたどり着けるビルの9階(元ホストクラブ)と屋上である。前者では、能舞台の「足拍子」(翁─天皇)が、飴屋の娘による映像として展開された。ビルの屋上手前の踊り場で撮影されたものであり、来場者は現場に至ると娘を真似てつい足拍子をとることで、自ら「翁─天皇─娘」へと接続されることになる。
屋上に出る瞬間は、前の会場で能舞台に出た瞬間と重なってくる。壁面には富士山や松が描かれながら劣化した銭湯画があり、その前には白い箱状のものがぽつんと置かれ、進むと複数のスピーカーから地鳴りのような音が流れている。白い箱(《冷凍庫》、1998-)は、飴屋が作家活動を一時休止して経営していたアニマルストア「動物堂」(1995-2003)の遺物で、彼が愛した動物3体が入っている。フリーズされたパーソナルなアーカイブは、今回初めて展示されたという。そして冷凍庫は、渡辺が展示した福島の汚染除去水から、汚染水を遮断する福島第一原発の凍土壁へと連想を派生させていく。
第1会場の能舞台の背景の松の絵と舞台上の《足拍子》の振動が、第2会場の屋上の銭湯画と手前にある《冷凍庫》の振動と呼応する。能の絵と銭湯画(それぞれの絵の前を交差した、男性の能楽師そして湯船の女性たち…...)、それぞれの前の「舞台」空間(生死の境界から発されたバイタルサインとフリーズされた動物たち)が、イマジナリーな「翁」の舞台として立ち現れるかのようである。
そしてもうひとつのバイタルサイン、1986年の三原山噴火の音を録音した《三原山噴火テレフォンサービス音源》が音として放出される。渡辺は今回、この音をどうしても入れたかったという。リズムそして胎動としての火山は、それらが連なる列島にあるこの国に、美や大地の恵みとともに、災害をもたらしてきた。当時、噴火音を録音したNTT社員は、その音を「地球の鳴動」と呼び、「胎動のように蠢いていた」としている。
じつは渡辺は妊娠中で、胎内では新しい命が胎動していた。渡辺は内部から突き上げるバイタルサインを、噴火音とつなげながら本プロジェクトを実現したのである。受精卵から分割した胎児は、特定のリズムや情報のフローに沿いながら、地球上の生命進化をなぞっていく。言うならば、ヒトとして形成されつつある存在が彼女にこのプロジェクトを召喚したとも言えるのではないか(中沢新一によれば、胞衣に囲まれて育つ胎児は「翁」でもある)。
渡辺は、「能にしかなし得ないものがある。言葉ではもはや現代は救えない」という石牟礼の言葉から、当初は新作能を構想したという。それも天皇に関係するものを。皇居近くで育った渡辺にとって、そこは身近でありながら管理された不可侵領域、つまり日常のなかの異界であり、彼女ならではの天皇への遠くて近いアンビヴァレントな想いがあるのだろう。
能舞台から出発し、様々な作品に出会った上でたどり着いた歌舞伎町を見渡すもうひとつの「能舞台」は、人の欲や業、時代の推移、人間や非人間の生死や境界、そして感知できない有象無象の存在が時空を超えて交錯するかのようである。能舞台も元来は屋外にあったことを思えば、まさにこの屋上が、様々な「まれびと」が交錯しふつふつと胎動する、原初的かつ現代的な「翁」の舞台なのだろう。そして気づく。能舞台の裏口からここに至るまでの行程すべてが、飴屋を核とする「翁」の渾身のパフォーマンス公演なのではないかと。
III.
飴屋はこれまで東京グランギニョルやM.M.M.など自ら劇団を率いて実験的な演劇を行ってきた。今回のプロジェクトもその系譜にある。飴屋は長年の多様な活動において、一貫して遺伝子上のつながり(生物的な親と子の関係)を作品そしてパーソナルな側面で探求してきた。M.M.M.の《SKIN》(1988-89)においては、データと化した父親と遺伝子でつながりデータとして結合する父と息子、「TOKYO 2021 慰霊のエンジニアリング」展(2019)での作品では飴屋自身の父の遺骨壺とともに、自らの身体を展示し続けていたことが思い出される(飴屋はそれ以外でも父の遺骨を何度か使っている)。そして今回は飴屋が父として、娘とのコラボレーションを実現した。飴屋はまた並行して、他者や非人間たち──動物や死者、ロボット──など異種や異界とのコミュニケーションを先験的に開いてきた。継続的な活動は、人新世やマルチスピーシーズ人類学という概念に遡る実践として、現代においていっそう重要な意味を帯びている。
親と子という側面では、渡辺と胎児の関係が本プロジェクトを稼働させた大きな要因であったことは疑いがない。そして私の推測だが、飴屋や渡辺に共通する「親と子」的な言語を超えた関係を持つものの延長として、(遺伝子レベルではないが)天皇と日本人を挙げることができるのではないか。飴屋や渡辺、そして私たちにとっても複雑な存在だが、日本という身体/システムに内包されてしまっている。飴屋が1988年の《SKIN》以降、テクノクラート名義の《ダッチライフvol.1 コンタミネイテッド》(1992)を筆頭に、「日本ゼロ年」展(1999)を経て《じめん》(2011)に至るまで、昭和天皇を作品に取り入れてきたこともその流れにあるのだろう。
安藤礼二は、折口と天皇について以下のように述べている。「折口が『民族論理』の要として抽出してきた天皇は、常に二重性を持っていた。(略)折口信夫が抽出した天皇のもつ二重性は、天皇を国家統合のシンボルにして国家の主権者とした列島の近代が孕まざるを得なかった二重性と対応しているように思われる。(中略)列島の近代化は、天皇という前近代的かつ『非理性』的な存在を統合のシンボルとしながら、近代的で『理性』的な国家を目指すという地点で完成を迎える。呪術的な祭祀の長が、そのまま、近代国民国家—あるいはその近代国民国家を超えていこうとする帝国—の主権者となったのである」(*8)。
天皇(前近代)と近代を矛盾のままに抱え込んだ明治以降の日本…...そこでは「翁」的なものも含むアニミズムが否定され、廃仏毀釈が推進された。その後、日本がアジア諸国の植民地化を推進し、第二次世界大戦で敗戦したものの天皇制を保持しながら近代化を推進、高度成長期には水俣病に代表される公害を、近年では福島第一原発における深刻な事故を起こしながらも根本的な反省や対応がなされているとは言い難い。
安藤はまた「折口信夫が見出した天皇がもつ最大の二重性といえば、ミコトモチとしての天皇の裏面にはホカヒビトとしての芸能民がいる、ということである。『王者』と『乞食』が、表裏一体の関係にあったのだ。厳密に言えば、折口信夫がまず考察の対象としたのは、実は『乞食』の方である」(*9)と述べている。ここでは天皇とホカヒビトの関係性とともに、折口が後者を重視したことがわかる。翁に顕著なホカヒビトによる芸能(能の起源)と歌舞伎町、そして天皇がつなげられる。
飴屋は今回、天皇のバイタルサイン(生から死へと向かうグラデーション)を翁と結びつけた。こうしてこのプロジェクトでは、「翁」を介して一見相反する様々なものがつながっていたことがほのめかされた。それは近代的な世界観ではとりなし不可能な倫理や摂理に満ちている。
現代において、近代以前の叡智を感知し掘り起こし、それらと接続することは、美術や芸術、芸能という軛(くびき)から自由になり、人間と非人間、そして世界の根源と向き合うことであるだろう。
このプロジェクトは、そのことを察知した様々な胎動が稀にみるタイミングで同期することで実現したと言えないか。中沢は、折口の「まれびと」と禅竹の「宿神」が、概念の背後に「胎動をはらんだ母体(マトリックス)状の超空間」を抱えていることで共通すると述べている(*10)。 本プロジェクトは、人新世そしてポストパンデミックの時代に、新宿・歌舞伎町の能舞台において、渡辺の妊娠をはじめとする様々な根源的な胎動による母体状の超空間を出現させた。
*1──安藤礼二『折口信夫』(講談社、2014)
*2──前同
*3──前同
*4──折口信夫「翁の発生」(1928)、『古代研究II』(角川ソフィア文庫、1975)
*5──中沢新一『精霊の王』(講談社、2018)
*6──ヘンリエッタ・ラックスの略称として「HeLa細胞」と呼ばれる、ヒト由来の最初の細胞株。世界各地で流通するが、本人に無断で株化されたことに加え、アフリカ系であり女性であったことが近年問題視されている。
*7──ガラス瓶に密閉された放射性物質が除去後の福島第一原発の汚染水。
*8──安藤礼二『折口信夫』(講談社、2014)
*9──前同
*10──中沢新一『精霊の王』(講談社、2018)