2022.11.16

90年の孤独。清水穣評「ゲルハルト・リヒター展」

ドイツの現代アーティスト、ゲルハルト・リヒター。その生誕90年、画業60年を記念した東京初の美術館個展「ゲルハルト・リヒター展」が東京国立近代美術館で開催された。リヒターが長年取り組んできたアウシュヴィッツを描いた大作《ビルケナウ》シリーズを中心に構成された本展を、清水穣がレビューする。

文=清水穣

《ビルケナウ》(2014)が展示された第2室 撮影=山本倫子
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 「回顧展」と思いきや、訪れた観客を迎えるのは、最後のアブストラクト・ペインティング群(以下、AP)である。そして続くどの部屋でも、最後ないし最新の作品(APとドローイング)が、それぞれに過去との距離を測っている。これが、リヒター自身が関わったという展示のコンセプトのようだが、もう少し細かく見ていこう。

 APのルーツはフォト・ペインティングである。雑誌や広告の写真、家族のアルバムから採った凡庸なスナップ写真を丁寧に描き写したうえで、ブレやボケや拭き取りといった痕跡を加えるこのシリーズは、ボケた画像の彼方に、本来ピントが合うはずであった平面(=投影面、スクリーン、レイヤー)を意識させる(=「シャイン」を発生させる)ものである。したがって形式的には、シリーズの純粋な骨格を抽出した1967年の《4枚のガラス》(CR160)で極相に達する。そこでリヒターは、「大ガラス」の作者(デュシャン)に導かれるように、カラーチャート(絵画の即物的起源としての「絵具のチューブ」の代替物)へ向かい、レイヤーに対立する要素としての「筆跡」によって写真を描き写す「都市図」(都市の輪郭が空爆のように破壊される含意もある)や、ブレ・ボケを極限にして画像を投影面に溶解させる「グレイ・ペインティング」などを経て、APへと移行し始める。それは、具象に頼ることなく、絵具からじかにシャインを発生させるためであった。

 ここには、リヒター自身の一種の抑圧が垣間見える。そもそも、フォト・ペインティングが描かれた年代とは、アイヒマン裁判とフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判によって、いまさらのようにアウシュヴィッツが回帰し、その陰惨な映像が広く流通して(いわば「悲惨のポルノ」として)消費された時代であった。またこの時代は冷戦下の戦後ドイツ人が、消え去らない過去を見て見ぬ振りをした、疚しい抑圧の時代である。戦後の「明るい」消費生活と思い出したくない戦前を写したリヒターの写真は、まさにこの抑圧にふれていた。そのときAPは、トラウマの源たる具象自体を切り離そうとしたのである。

 1976年に始まるAPは、最初は、抽象的なスケッチの写真を拡大して油絵に描いたフォト・ペインティングであった(第1期)。年代にかけて、APは写真から脱却し、キャンバス上で様々な筆跡やストロークが乱舞する段階を経て、80年代半ばからスキージによる描法が導入される。スキージの効果は90年代にかけて支配的になっていき、面Aにそれと異なる質の面Bを重ね、A/Bの落差からシャインを発生させる方法論をもって、92年頃、ひとつの完成形に達する(第2期)。その後2000年代にかけて、この完成形は徐々に絵具の物質性を捨て去り、まずカラーミラー、次にガラス立体、そしてデジタル作品のストリップに至って極相に達する。その後、リヒターはしばらくAPを描かなかった。2014年、過去50年にわたり、取り組んでは手を引いてきたアウシュヴィッツという主題を、《ビルケナウ》連作によってついに描き上げた解放感のなかで、APが再開される(第3期)。これは、第2期プロセスの直前の段階に戻って、ガラスという極相に通じない別の道を模索するものだったが、リヒターは2017年に油絵の制作をやめる。わずか4年間に描かれた最後のAPが本展の導き手なのである。

《8枚のガラス》(2012)と第3期のアブストラクト・ペインティングが並ぶ第1室 撮影=山本倫子
入り口をはいってすぐ、《黒、赤、金》(1999、写真右)、カラーミラー《鏡、血のような赤》(1991、写真左)が並ぶ第1室 撮影=山本倫子

 観客を迎える巨大な第1室、左手前の第2室、左奥の第3室を見てみよう(番号は本稿内での便宜的なもの)。第1室の中央にはガラス立体《8枚のガラス》(2012)が据えられ、それより奥は文字通り最後のAPの空間、手前の空間も、左壁の大部分と右壁の半分が第3期のAP(2016)で占められている。それ以外の5点はAP(2000)、《黒、赤、金》(1999)、AP(1992)、カラーミラー《鏡、血のような赤》(1991)、そしてグレイペインティング《樹皮》(1973)で、そこから2つの関係が読まれる。まず《黒、赤、金》と《樹皮》以外の3点は、上述の通り、最新のAPが切り離した過去である。そして両作品が、そのAPの引き金を引いた《ビルケナウ》(第2室)へと誘導する。前者は90年のドイツ再統一後、リニューアルされた国会議事堂の玄関ホールのために委嘱された作品の小品だが、それは、アウシュヴィッツを描くという最初のプランが放棄された後の代替案であった。後者は、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンが《ビルケナウ》を論じた際の重要概念のひとつで、それに刺激されたリヒターは、もともと無題だったグレイ・ペインティングにこの題名を与えた。こうして、第1室で本展の主役とその過去を目にした後、我々は第2室の《ビルケナウ》のインスタレーションへと足を踏み入れる。

 《ビルケナウ》はアウシュヴィッツで盗撮された4枚の写真を描き写したフォト・ペインティングを(ブレ・ボケの代わりに)白黒赤緑の4色で塗り潰してできた4枚のAPに、細いスリットで十字形に4分割された4枚のデジタルコピーがそれぞれ正対する、インスタレーションである。APとはレイヤーの縦横無尽の積層プロセスにほかならないから、4枚の写真絵画は、何重ものレイヤー(=樹皮)で覆いつくされている。それをリヒターは、正対する鏡に見立てたデジタルコピーに変換し、それを4分割することによって最後のレイヤー(4つの部分を横断する透明な面)を発生させる。最後の、というのは、これ以上何分割しても発生するレイヤーは変わらないからである。我々は《ビルケナウ》──アウシュヴィッツという長年の「負債」を返しきった作品──が、リヒターの「一生のテーマ」を終わらせたことを知るとともに、シャインの発生が、リヒターにとって何を意味していたのかをも理解する。あらゆる映像に向けて開かれた透明な面の発生、それは、トラウマ的な出来事が起こらなかったかもしれない過去の、すなわち未だ無垢のスクリーンの、召喚なのである。

グレイ・ペインティング、ミラー、カラーチャートが展示された第3室  撮影=山本倫子

 やや呆然としながら、最新作を含まない(2007年制作の《4900の色彩》は、70年代のカラーチャートの拡大版である)第3室に移ると、そこはリヒター芸術の「過去」、つまり「一生のテーマ」「シャイン」の部屋である(グレイ・ペインティング、鏡面それ自体をレディメイドの鏡によって表現したミラー、ブレ・ボケのかわりにモザイク処理を用いたカラーチャート、そして、灰色のAP(2000)は、APがそもそもグレイ・ペインティングの延長線上に発生したことを示す)。

 ノスタルジーの第3室の後に続く部屋では、すでに役割を終えた最後のAPが、次々と走馬灯のように現れる過去の作品群と対峙する。家族の肖像の部屋では、息子「モーリッツ」の肖像に執拗に傷跡が付けられ、家族写真に基づくオイル・オン・フォトでは、《ビルケナウ》と同じ白黒赤緑の絵具が擦り付けられている。「モーリッツ」を描いた直後、長年の予感を確かめるためにリヒターは遺伝子検査を受け、ホルスト・リヒターが自分の生物学的な父ではなかったことを知る。「家族」もまた、古傷のひとつであった。90歳を迎えた芸術家にとって、その家族と別れるときは迫っている。そんな孤独な静謐感をたたえた最新のドローイング群に見送られて、我々は会場を後にする。

ゲルハルト・リヒター 2021年6月1日 2021 紙にグラファイト 21×29.7cm 作家蔵 © Gerhard Richter 2022(07062022)

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 さて、あえて不満な点を挙げれば、照明の色味が暖かすぎ、そして《ビルケナウ》のインスタレーションにとって本質的な、絵画作品とその写真バージョンの正対関係が不完全だったことである。10月半ばから巡回する豊田市美術館での展示が楽しみである。

『美術手帖』2022年10月号、「REVIEWS」より)