体験の再現性と一回性
展覧会の体験に再現性はあるのだろうか。何を見て、何を感じるのかは来場者の一人ひとりにゆだねられる。そして、それら無数の体験は一人ひとりの日常となだらかにつながっている。波打ち際を歩きながら、島根県益田市にある衣毘須神社の鳥居をくぐる。螺旋を感じさせる階段を上り、小浜海岸を一望する。沖には高島が見える。今は無人島となったその場所には、漁師や釣り人が渡っている。
何を見、何を聞き、何を嗅ぎ、何を食べ、何を感じ、何を考え、ここにいるのか。あるいは、ただぼんやりと波打ち際を歩くような、そうした感覚や意識自体が薄くなっている状態でもよい。展覧会の体験は一人ひとりのある時間と空間における一回性によるものであり、それを抽象化し、データ化できるような客観的な数値をもたない。本展は「既知の宇宙|未知なる日常」と題されている。宇宙を「既知」とし、日常を「未知」とする視線は、この「体験」というアポリアに向けられる。
本展において「体験」の対象になるのは「自然」あるいは「宇宙」である。例えば、太陽が昇り、沈んでいく。その1日の回転運動を太陽を中心にしてとらえる360度カメラの映像が大画面に映し出されている。平川紀道の《sunlight spectrum sonification》(2022)は、私たちがいつも浴びている太陽光を色のスペクトルへと分解した後、その数値をもとに音を生成し、合成する。それゆえか、360度という全方向から情報を集めた映像はモノクロームである。
人間にとっての可視光線は紫外線と赤外線の間となるおよそ400〜800nmの波長であるが、可聴音は超低周波と超音波の間となるおよそ20〜20000Hzの周波数である。平川が太陽光を収集するために使用したセンサーは、光のスペクトルを288色でとらえているという。いっぽう、人間は光を網膜で長(赤)/中(緑)/短(青)波長の3色で感知するため、目の前の黄色が純粋に黄色なのか、赤と緑の混色なのかを判別できない。だが、耳であれば、12音階やその数オクターブの可聴域において、目の500倍広いレンジでその分布をとらえることが可能となる。ただし、光の波長を音にしたとしても、人間の耳には高すぎて聞こえないため、本作では10兆倍以上に引き伸ばされており、むろんその分布を光として感知することはできない。《sunlight spectrum sonification》は、そもそも私たちの目の前にある物理現象、光というごく当たり前に感じているにもかかわらず、感覚に制限されている現実と、五感でとらえられなくとも確かに「在る」という事実とを結びつけるのだ。あの日、あの場所に、このスペクトルはただただ届いていたはずだ、というように(*1)。
このあまりに自明な「人間的な領域」から、平川は自然を対象としつつ、それを計算可能な数値へと変換し、突破しようと試みる(*2)。《(non)semantic process》(2022)は、平川が持石海岸で拾った流木をカメラで撮影し、その写真を文字へと変換していく装置である。平川によれば、コンピュータが実行するプログラムは以下のようなものとなる。(1)流木を撮影したモノクロ・デジタル写真の1ピクセルを、黒を0、白を255とするグレースケールの数値へと変換する。(2)その0〜255の数値をアルファベットの総数の25で割ることで、A〜Zのいずれかのアルファベットに割り振る(割り算の余りは割った数以下の数値になる)。(3)アルファベットに変換された文字列を辞書で検索し、適合する単語を見つける。
確かに、このプロセスには「流木を発見する」および「写真を任意のアングルで撮影する」という「制作」、そして「列挙された単語を読む」という「鑑賞」の2つの人間的な営為が残されている。しかし、ここに現れているのは人間の感覚が感知する非数値的な領域を数値化させてコンピュータにインプットし、再び別の非数値的な領域としてアウトプットする、というような対比的な操作ではない。それは、むしろ人間の恣意性を膨大な計算によって消滅させようとする、あるいは再現可能なものとして等価にしようとする行為にほかならないのである。
なぜならば、流木は(光と同様)、平川が採集した自然物であり、言うまでもなく平川という個体が生成したものではない。いわゆる「木」は種から発芽し、土に根を張り、葉を茂らせ、そして種を増やし……というプロセスを太古から反復する連続体の一部である。このプロセスの起源へと至ろうとすれば、むろん宇宙の誕生にまで遡ることになる。《(non)semantic process》は、目の前にある「
流木をある角度から撮影するという程度の恣意性であれば、現在のコンピュータにかかれば問題なく再現可能である。そこには結局、あらゆる流木が発見される可能性ですら「宇宙の歴史を3200万回繰り返す」(*3)というような天文学的なシミュレーションにおいて再現可能である(ように思われる)領域が横たわっている。アウトプットされた文字列もまた、人間と人間のためにつくり出されたコンピュータにしか判読できない情報ではあるが、シンタックスを与えられていない単語の羅列に意味を読み込み、解読することは人間にもコンピュータにもできない(しかしこのアルファベットの文字列にはわずかな人間的知性が残され、星座のような結びつきを心に浮かべることはできる)。
にもかかわらず、平川が持石海岸でこの流木を見つけたことを一度きりの出来事として、私やあなたがある文字列を見たことを一度きりの出来事(文字列は画面を埋め尽くすと保存されずに消去されていく)として、感知してしまうのはなぜか。平川が示す計算可能な宇宙の再現性には、私たちがそう感じているにすぎない(あるいは私たちのセンサーをすり抜けてしまい感知できない)一回性の知覚閾が隣接し、迫っているのである。
こうした鑑賞体験の一回性は、「食べる瞑想×体験型アートのワークショップ」(*4)への参加によっても再認識させられた。ワークショップに参加する1時間前に野村康生の《InsideOut》(2022)を鑑賞した際には、その幾何学的な形状の回転体に目がひきつけられていた。ミラーフィルムの半球体のなかで、正四面体がフラクタクル状に構成された回転体は非常に視覚的であり、多色の回転体とフィルムに反射する光のスペクトルの振動が感知された。
けれども、一粒のレーズンを用いて、ゆっくり、そしてじっくりと触覚、嗅覚、味覚へとフォーカスしていく瞑想法を実施した後で、《InsideOut》の展示室に入った瞬間に感じたのは色や形ではなく「匂い」であった。その直後に「鳥の鳴き声」が強烈に耳に響いた。1時間前にも、コロナ対策によるマスクの着用によってある程度遮断されていたにせよ、確かに同じ柑橘系の香りが漂っていたことが思い出される。音もまた低音のほうが印象的であったにせよ、そこには確かに鳥の鳴き声も混ざっていた。しかし、このとき、「匂い」と「鳥の鳴き声」の方を、視覚的な「構造体」よりも強く受信する、というセンサーへと自身が変化したことを突きつけられたのである。
ワークショップの体験をシェアするなかで、湿度を感知し、光の反射に水面を見たり、重力を感じずに浮くような感覚をおぼえた参加者がいることを知った。野村の《InsideOut》は、このワークショップにおいて強調されてはいるが、本来「眼耳鼻舌身意」という6つのチャンネルのいずれかを主調にして行われている体験の要素を回転させるためにこそ設計されている。この作品のインパクトは、地球の球体を裏返すミラーフィルムの半球体と、その中心で回転する四次元正四面体の5番目の頂点が三次元空間(x, y, z)軸に垂直な方向(w)、すなわち虚の方角へと折り返されるように、体験を「内なる宇宙」において反転させることにある。
ここまで記述してきた「体験」において、平川と野村の作品のあり方はともに、マルセル・デュシャンが「アンフラマンス」と呼んだ感性へと接続される可能性がある。それは、「赤外線」を「英=infrared、仏=Infrarouge」と呼ぶように、「アンフラマンス(infra=[〜より]下の、mince=薄い)」という人間の知覚閾を超えた薄さに向けられる感性であった。アンフラマンスは知覚外の領域に消えていくとしか言えないような方向を鋭くとらえようとする、あるいは三次元空間を超えた高次元の方角を感知するために、五感を総動員しようとする感覚と言ってもよいかもしれない。デュシャンは虹色の光彩、音の出現にアンフラマンスな領域を感知していた。そして、匂いや温もりにも。
野村と平川が共同制作した《ひもと重力による構造形成/力が生まれるところ》(同一の対象に二人はそれぞれ別のタイトルを付けている)は、格子に3種類の長さのひもを結んでいく、といういわば(限りなくプログラムに近い)「ゲーム」である。構造体に掛けられるひもは重力に従ってたわみ、弧を描いていく。一人ひとりの参加者ごとにそれを撮影していき、相互に干渉し合うひもの連鎖を、後に垂直方向を反転させたCGとして映像化するのである。(1)観察(2)ストリングの選択(3)接続点の選択(4)接続、と構築のルールが列挙されるなかで、何よりも私はこのゲームをプレイするために求められる「エージェント」の条件が忘れられない。「下記の条件を満たす知性体を用意する/なんらかの方法でグリッドとストリングが知覚できること」。そして「美的判断力があること」──。
青い海、高津川、赤い石州瓦、萬福寺の庭園、中華料理店の昼食、石見美術館といわみ芸術劇場をつなぐ中庭の水盤。知覚閾が変換し、反転する「未知なる日常」につながる「既知の宇宙」。それは、私たちの「体験」、その一回性のなかにある。
*1── 同室には、島根県出身の平川が選定した石見の4つの場所(高島、石見畳ヶ浦、萬福寺庭園、北浜海岸)から、太陽系より約40光年の距離に位置する、人類が移住可能だと推定される太陽系外惑星系「TRAPPIST-1」の方向を360度カメラで撮影した写真作品《TRAPPIST-1》も展示されている。太陽光を受信する可能性に言及する《sunlight spectrum sonification》に対し、こちら側から向こう側、すなわち太陽系の外へと渡る可能性という点でベクトルが反転している。
*2──平川のこうした継続的な取り組みについては、平川紀道「human property(alien territory)」展(Yutaka Kikutake Gallery)レビュー、中尾拓哉「ゆさぶりの閾値」(「ウェブ版美術手帖」2019.4.24)を参照のこと。
*3──「宇宙の歴史を3200万回繰り返す」という時間感覚は、2022年7月10日に島根県立石見美術館で平川と対談した数学者の森田真生の発言による。ただし、森田のそうしてリニアに時間が流れるというシミュレーションが実在するような錯覚をコンピュータが私たちに与えているだけではないか、という指摘はきわめて示唆的である。
*4──「食べる瞑想×体験型アートで自分のなかの宇宙と出会おう!大人が気付くワークショップ」2022年7月9日実施。野村と心理学研究者である北川智利、高橋康介、藤野正寛が共同で企画した。瞑想の実践者であり研究者の藤野のファシリテートによって、マインドフルネスの状態での《InsideOut》の鑑賞が行われた。