「交差点」としての展覧会はつづく
2021年の10月。富山と金沢のあいだ、砺波平野にある古民家を改装したアートスペース・ギャラリー無量には、渋谷剛史、髙橋銑、松元悠、三枝愛という1990年代前半生まれ、ほぼ同世代であるアーティストが集まり、交わり、すれ違う「交差点」のような空間が出現していた。同じく同世代である松江李穂のキュレーションによる展覧会「一歩離れて/A STEP AWAY FROM THEM」によって。
本展は、同ギャラリーで2019年に設けられた「キュレーション公募」において、翌年実施予定として選出された企画であった。新型コロナウイルス感染症流行の影響を受け、2020年は展覧会の開催が延期され、2021年になってようやく実施された。構想から実現まで約2年と、その歩みにも紆余曲折があっただろう展覧会である。
この展覧会を着想したきっかけとして、松江は2019年に同所で行われた長谷川新キュレーションによる展覧会「STAYTUNE/D」(2019年10月4日〜11月24日)をあげる。同展は、松江によれば「移動」、特に近代以降の移動技術、機械移動の発達をめぐる諸問題を取り扱っていた。それに対して、今回は「徒歩移動の物語」を考えてみたかったという(*1)。
砺波平野は散居村と呼ばれる、各家が離れた集落形態で有名だ。ギャラリー無量のロケーションは、車で訪れるにしろ、もしくはバスと最寄りの停留所から徒歩で会場を目指すにしろ、距離やそれに伴い生じる移動について強く意識させられるもののように思われる。個人的には今回、会場へ向かう道すがらの断片的な風景、その移り変わりとともに自分が考えていたことをありありと覚えている。言い尽くされてきたことだが、やはり私たちは「歩きながら考える(*2)」のだし、移動しながら考え、意識の流れを経験するのだろう。
本展タイトルは、フランク・オハラ(1926〜66)の詩からとられている。オハラは1950年代半ばから詩作を行い、ニューヨーク近代美術館の受付勤務からキュレーターとなった人物だ。ニューヨーク派の中心人物として、抽象表現主義の芸術家たちとのつながりを強く持っていたオハラの詩は、「なぜぼくは画家ではないのか/Why I Am Not a Painter」のように画家たちとは一線を引きつつも、抽象表現主義やそれ以前のシュルレアリスムの存在を背景に形成されていたという。
抽象表現主義の画家たち、といっても一括りにできないほど多様ではあるが、それでも全般に言えることは主題を追求しないまま即興的に描き、そのプロセス自体をむしろ重視するという表現法を特徴としていたわけで、それにオハラが影響され、また自分の詩に取り入れようとしたことは疑いえない。(*3)
「(彼ら/それらから[*4])一歩離れて」の詩でも、オハラは昼休みにニューヨークの路上を歩き、目に映った物事や自分の状況を淡々と羅列する。そして人々の往来がきっかけとなったのだろうか、突然脳裏に浮かんだ早世の友人たちのことが一瞬挿入される。この詩は、生きているオハラが「彼ら」から一歩しか離れていないとも言えるし、「それら」が見聞したことだととらえるならば、対象との距離を意識しているともいえる。いずれにせよ、詩のテーマはひとつでなく多義的であり、詩はどのようにも受け取られるよう、曖昧な部分を残して留保されている。
展覧会に話を戻そう。会場の入口では、キュレーターの松江が執筆した小冊子(ハンドアウト)を手渡される。各作家に興味を持ち、コンタクトを取って彼/彼女たち自身や作品を知っていく過程や、アーティストと過ごすなかでのエピソードなど、松江の語りを通して、それぞれの作家や出品作の核にふれられるようなエッセイなのだが、不思議と「解説」のように一方的には感じられない。キュレーターである以前に一個人としてアーティストに向き合い、自らが設定したこの「徒歩移動の物語」を投げかけ、アーティストそれぞれの歩調に合わせて寄り添う姿勢がうかがえる。このテキストが、本展にやわらかな補助線を与えている。
かつて居間やダイニングであっただろう部分がギャラリー空間となっている会場。まず目に入るのは、松元によるリトグラフの作品群。少し離れて、ペンで書かれた高札/かわら版のようなもの。すぐ近くには窓辺に広がる農村風景、駐車場、庭を背景に、三枝の「禹歩」を題材としたサイアノタイプをはじめとする作品。そして時たま、薄暗い一角からおもちゃの汽笛が聞こえる。これは髙橋の映像インスタレーションが発するものだった。
三枝の作品を通り過ぎ、曲がって家の奥へと進むと仏間と和室があり、そこに渋谷の作品群が展開される。庭を通らないと足を運べない蔵には、三枝が手掛けるシリーズ「庭のほつれ」がたたずんでいた。
一見、用いるメディアや表現手法も少しずつ異なるこの4人だが、本展では、生きるなかで各自の目に映った出来事=現実に対して、それぞれが対象との距離をはかりながら、あくまでもパーソナルなアクションを試みていた。その行為が結実し作品となって表れているわけだが、結果はプロセスほど意識されているようには思えない。むしろ意識的に何かをすることによって、なんらかのかたちをとらなければこぼれ落ちてしまうことを留めようとする態度が表出していた。
例えば松元は、マスメディアで報じられる事件からSNSで拡散される出来事まで、全国各地で起きた事柄のワンシーンをリトグラフに表す。それぞれのシーンが横並びになると、画中の人物が誰しも女性であることを発端に違和感が生じるのだが、これは松元が登場人物をすべて自分に置き換えてシーンを再構成しているからだ。リトグラフから少し距離を置いて、かわら版のような内容の、写真やマンガも挿入される手書きの高札も一緒に展示されるのだが、これはいわばリトグラフ作品を制作するにあたってのマインド・マップのような独自メディアになっており、それぞれの出来事の要素が個人的な観点から抽出され、まるで物事の周囲を旋回するようなリサーチを見せる。好奇心で騒がれ、消費され、すぐに忘却されてしまう事柄に対して、当事者とはあえて距離をとりながら、出来事のみを媒介としたコミュニケーションの様式を発明しようとしているかのようだ。
三枝は、もともと歩いているイメージの強いアーティストである。東日本大震災で原発という大きなシステムが破綻を見せただけでなく、実家の椎茸農家、そこで使われていたものたちも影響を受け、変わらないと思っていた風景が変わってしまった。それを「庭のほつれ」と呼び、2014年から定期的に作品として取り組んでいる。今回サイアノタイプで写し取った三枝の「禹歩」は、「徒歩移動の物語」の空間にとって象徴的でもあった。直立二足歩行は人間だけが行う動きだが、バランスを崩しながら前へ進んでいくことでもある。富山は米騒動発祥の地であり、昔から水害に悩まされてきた。そこに古代中国の禹王が治水のため国土を歩き回った結果、引きずり歩きになってしまったことと自らの身体を重ねた。
また三枝は展覧会準備中の1年間、富山から離れていても富山新聞を取ることで土地との関係を結び続けたかったという。蔵では「庭のほつれ」として、その富山新聞が裂かれ、椎茸の原木由来の糸とともに紙布が織られ続けていた。ある一定のリズムで続けられる手仕事は歩くこととも近いかもしれない。様々な出来事を織り込みながら別のものに転用し、それがまた使われる時を静かに待つ姿勢が示されていた。
三枝と髙橋は、作品の保存修復にも携わりながら制作活動をしている点で共通点があるが、プロセスのまったく異なるアプローチを行っていた。髙橋の映像作品《Feels Like We Only Go Backwords》はオーストラリアのバンド、テーム・インパラの楽曲をそのままタイトルに引用しており、この曲では踏み出すことができない、アクションを起こせば壊れてしまう関係性が歌われている。
ブロンズ彫刻をはじめとした保存修復の仕事から作品制作に入った髙橋は、ものの有限性や終焉をつねに意識しつつ、存在の不確かさや、修復によってどこまで介入するか選択しなければならないことに対する自問自答を、状況を比較すること(《二羽のウサギ》、2020)や処置を施してみること(《Cast and Rot》、2021)などで表してきた。作家本人とおもちゃの機関車、飼い犬が登場する今回の映像のなかで、特筆すべきことは起こらない。一見、髙橋の作家性とは離れているようにも思える今回のアプローチであるが、これまで彼が考えを巡らせてきたことが、実際の他者との関係性と地続きであることや、そのズレから作品が生まれることが明示されたと言えるだろう。
今回渋谷は、会場が古民家である特性と作品をいちばん合致させていた。もともと柔道の選手であったことから、身をもって体験してきた体育会系特有の「しごく/しごかれる」関係性を現代美術に横滑りさせ表現=技をかけてきた渋谷だが、近年はそこから祖父の戦争経験やそれぞれの歴史認識に興味を持ち、自らの身体で当時の彼らの心技体との距離をはかるべく、忠魂碑などに直接的なアクションを試みている。今回も、自らのルーツに関係していた寒河江ダムの話を収集し、かつて対立し異なる感情でダムをとらえていたであろう曽祖父と柔道の恩師の関係性にアクションを起こし、歴史の指標である碑や絵画に技をかけ、その重みと動かなさを実感する。
渋谷が今回初めて意識的に向き合ったのは、祖父も抱えていた難聴をはじめとする自分の障害と差別についてだった。障害者の体験は社会が目を背けてきたためか記録も少なく、渋谷も祖父のことは想像するしかない。しかし祖父が使っていた補聴器の金属音を鳴らすことで、当時本人も聞こえていなかった音、個人が体験してきた語られない歴史を聴いてみようとする。渋谷はダムや祖父に関する資料を積極的に展示するが、それは作品を知る手がかりであると同時に、つくったものだけですべてを伝えることの限界を意識しているように思われる。
オハラの詩の特徴で、この4人のアーティストの実践や作品の傾向をひとまとめにとらえるのは暴力的かもしれないが、彼らがプロセスは違えど自らの生きる世界に対して、それぞれが対象への距離を意識し、問いの答えを出すのではなくプロセスを見せていることは確かなように思われる。何かしなければ失われそうな出来事に対して、自らの立ち位置を思考し続けるために作品という目的地ではなく、手段をとっていることは疑いえない。
そしてそれぞれの制作や対象への態度は、目に映った出来事や大小の歴史に対する問いが少しずつ重なり合うように見えて、すれ違いの様相も呈している。しかしそのズレが、歩き方の違い、差異という豊かさとなって展覧会を成立させている。
筆者が展覧会を訪れた会期最終日は、4人のうち3人のアーティストやキュレーターが会場におり、ギャラリー無量に泊まり込みで搬入や設営をしていたときの様子がほんの少しうかがえる、さながらレジデンスのような雰囲気だった。
松江は、同時代美術に対する今日的なキュレーションの指針を示したキュレーター、ハラルド・ゼーマンの研究を行っているが、伝説的な展覧会「態度がかたちになるとき 作品-概念-過程-状況-情報(Live in Your Head -When Attitudes Become Form: Works-Concepts-Processes-Situations-Information)」(1969)のように、同時代を生きるアーティストが特定のムーブメントによることなく、展覧会によって仮設的な集合体としてゆるやかに結び付けられ、制作のプロセスが共有され、相互に関係し合うことに意識的であるように思われた。もしくは「キュレーション公募」というしくみと場所が、それを考えさせるのかもしれない。これからも、様々な「交差点」がこの場所で、またそれぞれの歩みの先にあり続けるだろう。
*1──本展で配布されていたハンドアウトより。
*2──矢内原伊作『歩きながら考える』(みすず書房、1982)は書名タイトルにも用いられている端的な例だが、アリストテレスら逍遥学派はじめ、古代ギリシャから歩くことと思考の不可分さ、効用は意識されてきた。
*3──飯野友幸『フランク・オハラー冷戦初期の詩人の芸術』(水声社、2019)、91頁。
*4──原題から筆者挿入