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2021.11.29

日本とポーランドをつなぐ/(スラッシュ)。布施琳太郎 評 百瀬文《Flos Pavonis》(「新・今日の作家展2021 日常の輪郭」)

横浜市民ギャラリーで開催された「新・今日の作家展2021 日常の輪郭」。田代一倫と百瀬文の2作家が参加した同展のなかから、アーティストの布施琳太郎が百瀬文の初公開作品《Flos Pavonis》を取り上げてレビューする。

文=布施琳太郎

展示風景より、百瀬文《Flos Pavonis》 撮影=加藤健
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操作する/される、疎外、ふたつのひとり

 並べられた椅子に、ひとりきり腰掛けていた。白い部屋。わたしはわたしたちが増えたり減ったりする社会についての会話を聴いていた。そこは薄暗く、壁に投影された映像だけがこのからだを照らす。反射したパノラマが紺色のワンピースの裾を夜明けみたいな青にした。ベランダに干していたのをそのまま着てきたからとてもやわらかい繊維。ちらちら揺れる。あなたの肌を覆う細い毛みたいだね。手のひらが汗ばんだ。このからだと、目の前にある音や光だけが、わたしたちの生きる現実ではない。そんなことを知った気がする時間だった。

 いくつもの意思が重ねられることで法律がつくられ、いくつもの異なるシステムがそれぞれの国家を成り立たせている。だから選べることは少ない。誰かひとりのためではなく、たくさんの人々のためにつくられた社会のなかで百瀬文の映像作品を経験する。

 「わたしはわたしのからだを自由に扱うことができない」と声にしてみた。その瞬間、わたしは「わたし」をふたつにしてしまう。操作すると同時に操作されるものとして、このからだが二重になる。つめたい風がふとももを撫でる帰り道。わたしが「わたし」から疎外される。それを自由の形式としてとらえることもできるのかもしれないし、昨日見た映像では、この疎外がつねに展開しているように思えた。

 ある瞬間には、見る/見られるという関係が、また別の瞬間には撮る/撮られるであり、教える/学ぶ、産む/産まれる、犯す/犯されるであるような関係が、クルリと回転して別の仕方で人と人を結ぶ。そうして回転していく白い時間のなかで、なにかがこぼれ、無数の鑑賞者のなかのひとりである「わたし」を照らす。異なるからだに誘われる(夕日に照らされながらiPhoneに文字を打ち込む27歳の青い男がショーウィンドウに反射した)。

 それぞれ異なる機能を持った無数のからだが、同時に存在する世界。歩くことが、聞くことが、伝えることができる/できないからだ。そこでなされるコミュニケーションについて、百瀬文は、自身の生を軽んじることなく思考し、演じ、編集する。そうしてつくられた映像を見ていると「/」(スラッシュ)が拡大されてピクセルの集合になっていく。プロジェクターの光と壁のあいだに右手をかざすと、白い肌が夜空になった。なにかがなにかによって隔てられていた理由を考えさせられる。

 30分。それだけがあの映像とわたしのあいだにある新鮮さでした。でもすでに2度目だった。40分が経ち、60分が経った。時がこぼれる。そもそも3DCGのオブジェは、過去に別の作品のために用意されたものだから2度目だった。ひとつの管。片方が出口で、もう一方が入口。いや、逆かも。トンネルというか、なんというか。距離を持った出入り口。出産において否応なしに発される吐息と、ポルノにおいて発される吐息を、両端から吹き出し、光る穴。別の映像で展示台の上に並べられたチューブ。その穴は《Born to Die》(2020)という映像作品のためにモデリングされた面の集合である。

展示風景より、百瀬文《Born to Die》 撮影=加藤健

 横浜市民ギャラリーで開催された「新・今日の作家展2021 日常の輪郭」ではじめて発表された百瀬文の映像《Flos Pavonis》(2021)は、30分にわたるふたりの女性の対話とともに、いくつもの形式の映像が順番に表示されることで進行する。対話する女性のうちのいっぽうは百瀬文であり、もういっぽうはポーランドに住むナタリアという女性だ。彼女は「Flos Pavonis」というブログを運営している。

 ふたりはコロナ禍において制限された自由のなかでインターネットを通じて連絡を交わしながら、2021年1月にポーランドで「実質ほぼ全ての人工妊娠中絶を禁止するという法律」(*1)が施行されたこと、あるいはそれぞれの私的な性関係、人権、そして歴史についての言葉を紡いでいく。

百瀬文 Flos Pavonis 2021 シングルチャンネルビデオ 30分

 Flos Pavonisとは、日本ではオオコチョウと呼ばれる赤い花の名称であり、「ヨーロッパの植民地であったカリブ海地域に連れてこられた黒人女性の奴隷たちが、領主等に孕まされた自分の子どもを堕ろすために使っていた堕胎効果を持つ植物」(*)だ。赤いドレスを着た女性がポールダンスをする映像が画面に表示される。ポーランドの路上に撒かれた催涙スプレー。人工妊娠中絶を禁止する法律に反対する人々のデモ。カメラが揺れる。白い飛沫、寄せては返す波。暗い河川敷を歩く百瀬が、背後から近づいてきた男性に押し倒される。暴れるから草木が折れた。自分の唾液を右手を使って男性の口のなかへ流し込む。慄いて走り出す男。映像の奥へ逃げていく。男はいなくなる。真っ白い部屋に並べられたガラスケースのなかのCGのオブジェは黙っていた。半透明のフィルムがふたつのメリケンサックのような金属をつなげている。その膜ごしにひろがる体液。

 ポーランドで施行された法律が、薄暗い部屋の30分のなかで、ふたりの声を介して、様々な感染症対策とゆるやかに結びつけられていく。

 百瀬文の作品は、それ自体がひとつの実践であるというより、無数の、そして複数のそれぞれに異なるからだが、それぞれに異なるという事実を受け入れながら、それでもなにか未来に向けた合意を果たせるかもしれない可能性そのものに思える。わたしたちが自分自身の身体の自由を謳歌すること。あるいは体液の交換こそが、この皮膚の火照りを別の皮膚にうつすこと。そこで必要な合意がどのようなものなのか、僕は考えている。

百瀬文の展示風景より、手前から《To See Her on the Mountain》、《Borrowing the Other Eye(Gade)》 撮影=加藤健

*1──展覧会ハンドアウトより引用(「新・今日の作家展2021 日常の輪郭」は百瀬文と田代一倫の作品を、それぞれ異なるフロアで個展形式で展示するものであった。本テキストは横浜市民ギャラリー1階での百瀬文の展示に基づいて執筆されたものである)。