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聞こえない声を見つめる。佐藤朋子評 百瀬文「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」

主に身体と声の問題を扱う映像作品を手がけてきた百瀬文が、東京では3年ぶりとなる個展「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」を東京・東葛西のEFAG EastFactoryArtGalleryで開催。本展は、オペラ『サロメ』をモチーフとした映像インスタレーション《Jokanaan》(2019)を中心に、新作3点で構成された。百瀬は映像というメディアがはらむ支配構造をどのように組み換え、そこに写し出される身体といかに向き合うのか? アーティストの佐藤朋子がレビューする。

文=佐藤朋子

百瀬文 Jokanaan 2019 2チャンネルヴィデオインスタレーション 12分26秒

ひっくり返る指先と目ん玉 

 「見えない人々=invisible people」とは、2018年のカンヌ国際映画祭で、審査委員長であるケイト・ブランシェットが口にした言葉だ。是枝裕和監督の『万引き家族』(2018)がパルムドールを受賞した理由に、「その(見えない人々という)存在に光を当てた」と話している(*1)。

 百瀬文の個展「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.」でも、「見えない人々=invisible people」に光が当たっていた。だが、そこでフィーチャーされる「見えない人々=invisible people」とは、『万引き家族』にみられるような社会から疎外された者のことではなく、作品制作や作品鑑賞に内在する、撮影者や被写体などの媒介者、さらには鑑賞者のことだと私は考える。

会場風景 撮影=金川晋吾
「でも、どうして私をみないの ヨカナーン」

 これは本展で発表された二画面の映像作品《Jokanaan》(2019)の中に出てくる少女、サロメのセリフだ。本作は、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『サロメ(Salome)』の1シーンを、3DCGの少女と、モーショントラッキングスーツを身につけた男性ダンサーに演じさせたものである。「でもあなたは死んでしまって その首はもう私のもの」と、彼らは歌う。

 右の画面には3DCGのサロメが佇み、その目の前には、血がついた銀の皿が転がっている。サロメの手やワンピースは赤く染まり、その血は生首になってしまったサロメの意中の相手、ヨカナーンのものだと想像できる。やがて、サロメは生前のヨカナーンの魅力を回想しながら、自身の局部を触り始める。左の画面に目を移すと男性ダンサーが同様の動きをしており、3DCGのサロメの振る舞いは彼のモーションをトラッキングしているものだということがわかる。彼は体のモーションだけではなく、サロメとともに歌を歌い、その表情まで、サロメの苦しみや困惑に近づいている。

Jokanaan 2019 2チャンネルヴィデオインスタレーション 12分26秒
Jokanaan 2019 2チャンネルヴィデオインスタレーション 12分26秒

 しかし、同期していたふたりは男性ダンサーがスーツを脱ぐことで決定的に分離していく。男性は裸体となり、サロメとともに歌うのをやめ、3DCGのサロメの体はバラバラになりながら、「あなたの体に飢えているの」「たった一度でも見つめ合えたなら きっとわたしたちは愛し合えたわ」と歌う。そして男性ダンサーは最後、銀の皿の上に自身の頭をのせ、静かに目を閉じる。

Jokanaan 2019 2チャンネルヴィデオインスタレーション 12分26秒

 ここで特筆しておきたいのが、男性ダンサーの声はミュートされている、ということだ。1964年に発表されたロバート・モリスのパフォーマンス《21.3》では、作家でありパフォーマーであるモリスの声がミュートされていた。モリスはいかにも教授のような服装と出立ちで、美術史家のエルヴィン・パフノスキーの講義音声に合わせて、リップシンクを行ったのだ。彼はリップシンクやジェスチャーといった行為を通し、実際の講義では起こりえないズレをつくり出していた。それは、記録と作品、発表することと媒介すること、といった既存の「物事の秩序」を不安定にさせる試みであった。そのとき、モリス自身のパフォーマンス行為は、物事を分析するための装置として機能する(*2)。

 つまりこの試みは、芸術実践が作者とオリジナル作品という関係に留まらず、媒介者と記録物によるものも可能だということを示すと同時に、「媒介者=メディエイター」としてのモリスという装置を介し、遠回りさせることで、オリジナルの講義に対する新たな視点を私たちに提示する。

 百瀬の本作においても、会場に響き渡るのは女性オペラ歌手による声のみで、画面の中でどんなに感情的に男性ダンサーがサロメの気持ちを歌っても、彼の声は決して私たちには届かない。この男性ダンサーは3DCGのサロメの中身、そしてサロメの意中の男性ヨカナーン(画面上では不在である)を同時に担っていた、と捉えられるだろう。サロメが求める男性という体を持ちつつも、サロメの感情を引き受け、それでも、ただのモーションを提供する装置でしかない、被写体としての苦しみがそこにはあるように思われた。

Jokanaan 2019 2チャンネルヴィデオインスタレーション 12分26秒

 本来サロメは、『新約聖書』の中で聖ヨハネにまつわる挿話において、母親に操られる少女としてしか登場しなかったが、1891年に劇作家のオスカー・ワイルドによって、ヨカナーンの生首を欲しがったのはサロメ自身だ、と創作された(*3)。それ以来サロメが担ってきた、男と女、エロスとタナトス、純粋無垢と残虐性といった「物事の秩序」を、男性ダンサーという「媒介者=メディエイター」を介すことによって揺さぶり、映像制作における被写体という存在に光を当てるのと同時に、欲望や狂気を投影する被写体としてのサロメという少女像をも再考させるのが本作である。

 百瀬が光を当てる「媒介者=メディエイター」という存在には、撮影者も含まれる。本展の入り口にある映像作品《I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U》では、画面の中で異様に白い顔をした百瀬自身が6分40秒間、目の瞬きだけで何かを訴えかけてくる。百瀬が画面に向かって瞬きし続けていたように、1971年に発表されたヴィト・アコンチの《Centers》では、アコンチが画面に向かって指を差し続けていた。

 彼はこの作品について次のように語っている。「(撮影時)ビデオモニターの自分に指差しし続けると(中略)、結果的にできあがるTV画面においては、(私の指は)方向を変え、私自身を指差しすることをやめ、画面の向こうにいる鑑賞者を指差すのです」(*4)。 本作において百瀬は撮影者であり、被写体であり、さらには自身を見つめることを通して、鑑賞者の私たちを見つめている。

I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U 2019 シングルチャンネルヴィデオ 6分40秒
I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U 2019 シングルチャンネルヴィデオ 6分40秒

 一般的に、美術作品におけるキャンバスや絵具などの媒介物はメディウムと呼ばれるが、「媒介者=メディエイター」の存在はあまり見られてこなかった。百瀬は「見えない人々=invisible people」である「媒介者=メディエイター」を制作過程から見つめ続ける。そして、彼らが作品の成立においていかに重要かを私たちに示す。

 本展において、画面の内側にいる「媒介者=メディエイター」は、媒介する対象を、想像するだけではなく、見つめることを私たちに許す。そして、百瀬の実践によってその対象が鑑賞者にまで及ぶとき、私たちは「見えない人々=invisible people」でいることをやめ、私たち自身も、鑑賞者という「媒介者=メディエイター」を担っていることに気づくのだ。

「あなたはいつも 想像すれば、わかりあえるって思ってる」 「ただ、想像するだけで済ませてる」 ――百瀬文《Social Dance》(2019)より
Social Dance 2019 シングルチャンネルヴィデオ 10分33秒


*1――是枝裕和「『invisible』という言葉を巡って―第71回カンヌ国際映画祭に参加して考えたこと— 2018年6月5日」http://www.kore-eda.com/message/20180605.html(2020年3月7日アクセス)
*2――Rike Franki, "When Form Starts Talking: On Lecture-Performance", Afterall: A Journal of Art, Context and Enquiry, Issue 33, pp.6-7 (2013)
*3――新谷好「『サロメ』の一考察――サロメ伝説とワイルドの独創性」追手門学院大学文学部紀要(35), pp.47- 60, 追手門学院大学文学部(1999)
*4――Vito Acconci, "Body as Place-Moving in on Myself, Performing Myself," Avalanche 6 (Fall 1972),()内は筆者が加筆

編集部

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