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2021.11.16

壁に触れたとき橋になるもの。佐藤真実子評「Walls & Bridges 世界にふれる、世界を生きる」展

東京都美術館で開催された「Walls & Bridges」展は、東勝吉、増山たづ子、シルヴィア・ミニオ=パルウエルロ・保田、ズビニェク・セカル、ジョナス・メカスという異なる背景をもつ5人の想像と創造の軌跡を、「記憶」をキーワードにたどるものだった。既存の枠組みにとらわれず、つくられたものに真摯に向き合うことで何が見えてくるのか。アール・ブリュットやアウトサイダー・アートを専門にする、東京都渋谷公園通りギャラリー学芸員・佐藤真実子がレビューする。

文=佐藤真実子

シルヴィア・ミニオ=パルウエルロ・保田とズビニェク・セカルの展示風景 撮影=齋藤さだむ
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創造の壁、想像の橋

 新型コロナウイルス感染症拡大によるオリンピック・パラリンピックの延期により、多くの展覧会が中止や会期の延期を余儀なくされた。そのひとつである「Walls & Bridges 世界にふれる、世界を生きる」展は約1年延期され、オリンピックの開会式の前日、7月22日に東京都美術館で開幕した。展覧会は、奇しくも五輪を思わせる5人のつくり手からなる。その生涯や制作の背景、また多岐にわたる表現と造形的特徴に、わかりやすい共通項はない。それゆえ、なぜこの5人が選ばれこの場所に集められたのかを理解するには、何よりもまず会場を歩き、みるしかない。

 地下2階に降りたところ、吹き抜けに沿って設けられた空中回廊のようなスペースの奥にはジョナス・メカス(1922〜2019)の「日記映画」が大きく映し出され、そこへ至る壁にはメカス自らフィルムの一部を選びプリントしていたという「静止した映画フィルム」が再現され、連続して並べられている。そこから望む階下には、シルヴィア・ミニオ=パルウエルロ・保田(1934〜2000)の《シエナの聖カタリナ像とその生涯の浮彫り(部分)》(1980〜84)が入口の正面中央に配される。柔らかく差し込む自然光の効果を得て、聖カタリナが手を広げ、天を仰ぎながら空間全体を包み込んでいるかのようである。もともと大彫塑室としてつくられた部屋では、それを特徴づけるコンクリートの壁面をあえて隠し、床のタイルと合わせた茶色の壁紙を仮設壁に貼っている。そこに油彩やドローイング、コラージュが並び、ズビニェク・セカル(1923〜98)の平面性の強い彫刻作品が続く。中央には、セカルの箱状の彫刻が配され、スエードのような壁紙の質感や彫刻の鈍い色、さらには、聖カタリナ像と相まって、礼拝堂のような荘厳な印象さえ与える。母国をあとにし思うようにならない環境で生み出された作品には、抱える痛みや不自由さから救われようとする切実な祈りがみえる。

展示風景より、奥がシルヴィア・ミニオ=パルウエルロ・保田《シエナの聖カタリナ像とその生涯の浮彫り(部分)》(1980〜84)
撮影=齋藤さだむ

 天井の低いふたつの展示室には増山たづ子、東勝吉の展示がある。年齢を重ねてから創作を始め、いわゆる「職業的なつくり手ではない」(*1)ふたりについては、少し詳しくみていこう。

 増山たづ子(1917〜2006)は、現在は地図に載っていない岐阜県旧徳山村に生まれ、農業のかたわら、民宿を営んでいた。昭和52(1977)年に徳山ダムの計画が本格化したことを契機に、コンパクトカメラの「ピッカリコニカ」(コニカC35EF)を手にして、出征した夫が帰還したときのために消えゆく故郷の姿を残そうと、増山は村とそこに住む人々の撮影を始めた。生涯を閉じるまでの28年間に、ネガ約10万カット、プリント約8万枚、アルバム約600冊を残した。

 増山のアルバムから展示のために選び出された約400枚はほとんどがいわゆるサービス版で、一枚一枚をフレームに入れるのではなく、箱型の額や円柱形の展示ケースに並べて展示されていた。額もケースもすべて本展のキーカラーの茶色で統一され、展示室の中央には増山のアルバムも広げて展示された。

増山たづ子の展示風景 撮影=齋藤さだむ

 写真に写るのは、村の老若男女の何気ない姿、毎日、毎年繰り返されるありふれた日常と少し特別な日である。家の軒先や庭、草花、そして、増山が「友だちの木」と呼び心の拠り所としていた楢(なら)の老木も、一緒に収められる。そこには、四季の移り変わりのなかで営まれる村のあらゆる瞬間が写しとられていた。シャッターを押すのに長い時間を要したという増山は(*2)、寂しさを感じながらもファインダーを覗いて、フィルムだけでなくその目にも確かに村や人々の姿を焼きつけようとしていたはずである。

 その頃、村ではダム建設への賛否が分かれ、辛い分断が生じていた。増山は写真を撮り被写体となった人に配ることで、離れてしまう人々の心を必死でつなぎとめようとしていた(*3)。年金のすべてを投じ、撮影のためなら天気も気温も時間も関係なく出かけ、村が存在したこと、心を通わせながらそこに住む人がいたことをこれほどまでに残そうとする姿には、ただならぬ気迫さえ感じる。最初こそ増山の動機はプライベートなものであったが、それはもはや姿を消す村から受けとった使命となっている。

増山たづ子の展示風景 撮影=齋藤さだむ

 増山は写真を60歳で始めたが、東勝吉(1908〜2007)は、83歳から水彩画を描きはじめた。大分県日田市に生まれた東は、10代で母親を亡くして以来、生涯の大半を木こりの仕事に捧げた。78歳で由布院の特別養護老人ホーム温水園に入所し、ホームの園長から水彩絵具と絵筆をもらったことを機に、水彩画を描くようになった。それまで美術を嗜む習慣もなく好きな画家もいなかったというが、絵具と絵筆を得て以降、東は猛然と描くことにのめり込んでいく。介護の必要な身体であるため、外での写生が困難な東は、制作のためにと風景の写真を強く求めた。それを媒介として、山の仕事で目にした風景を浮かび上がらせ、紙の上に描く。99歳で生涯を閉じるまでの16年に日々自室で制作した水彩画は、100点あまりにのぼるという(*4)。 

 東の展示室は本展では珍しくホワイトキューブで、茶色は額縁に採用されている。平面的にみえて奥行きのある作品を一点一点丁寧にみていくと、モチーフや色味の類似によって、かえって東が試みた多様な描法が際立つ。例えば、水分の調節を行いながらにじみを巧みに用いて細かな表情を生み出したり、頻出する緑も非常に多くの種類を使い分けて慎重に塗り重ねたりしている。また、点や線も大きさを変え、直線や曲線を使い分けて効果的に配し、草や花、葉の繊細な動きを捉えている。そういった緻密な描写とは対照的に、繰り返し描かれる由布岳を見てもよくわかるように、モチーフのフォルムは東ならではの方法で大胆に抽出され、さまざまなかたちの色面に落とし込まれている。 

 たしかに、80歳を超えていわば独学で始めた絵画制作ではあるが、貪欲なまでの探究の跡をみると、東がたんなる余暇の楽しみとして描いていたとは到底思えない。最晩年に体調を崩し、絵を描かないと言った東は、「描けば、前の絵を汚す」と語ったという(*5)。東は画家として絵筆を握っていたのだ。そこには木こり時代の記憶の世界にふれながら、新たに画家として同じ自然に懸命に向き合おうとする強い覚悟が感じ取れる。

東勝吉の展示風景 撮影=齋藤さだむ

 本展で紹介された5人のつくり手にとって、いずれも創作は生業ではなく「生きる糧」であった。それは、娯楽や趣味という程度のものではなく、おそらく日々の幸福感をもたらす「生きがい」とも違う。それがなければ生きていけず、もう一度生きるためにすがるものであったはずだ。展示室では、生き直すための切実な祈りが迫ってくる。すべての作品をみてはじめて、この5人が選ばれた理由が理解できた。

 普段アール・ブリュットやアウトサイダー・アートに関わる筆者にとって、本展でどうしても触れずにいられないのは、いわゆる素人で、独学で創作を始めた増山や東に、それらの言葉が紐づけられていないことだ。企画者の東京都美術館学芸員の中原淳行によると(*6)、本展では、5人のつくり手をできるだけフラットな状態でとらえてもらい、つくることや表現することのルーツにふれる機会をつくりたかったという。

 特定のものに名前をつけることは、ものごとを分類し整理する際に必要であり、煩雑なもの、価値の定まらないものをまとめ論じるために有効である。しかし、それによって常にその言葉がつきまとい、ときに偏った印象を植えつけ、自由な見方を妨げる恐れもある。筆者は、アール・ブリュットやアウトサイダー・アートにおける呼称の種々の議論や問題点を踏まえながらも(*7)、状況に応じてやはりそういった呼称を用いて整理することもある。しかしそれは、それらの言葉で名づけられた作品や表現に積極的に関わるためである。他方で安野光雅によれば、私たちには、ある特徴をひとつの言葉で整理することで、評価の「圏外」に置こうとする傾向もある(*8)。多くの者は、言葉をつけて「圏外」へ置くことで、関わることを避け無関心でいようとする。それは、日本のメインストリームと周縁に置かれた表現とのあいだにも当てはまるだろう。言葉はものごとの交わりを促すものである一方で、自己を守り他を拒む壁になる。

ジョナス・メカスの展示風景 撮影=齋藤さだむ

 アール・ブリュットやアウトサイダー・アートに日常的に関わっていると、作品や表現を読み解く手がかりが少ないために、ほかの作品を扱うときよりも、とにかく表されたものをみて「想像」することを迫られる。かといって、自由に想像すればよいというのではなく、ペンや鉛筆、筆のストロークなど、目の前に残されたものをたよりに、つくり手の身体の微かな動きを目でなぞるのである。その作業を続けると、次第につくり手の「創造」の過程へ自分の「想像」がおよび、ふたつが重なり合うときがある。本展をみたときにも同様の経験をした。そこに至ると、言葉に頼ることの無用さを突きつけられ、じつのところ、他者とのあいだに高くそびえるようにみえる壁さえ自身で立てていたことに気づかされる。 

 中原は、鑑賞体験の真髄とは、対象に近づくことで他者と一体になる瞬間にあるという。そして、会場に表された5人のつくり手の「創造」に想いを馳せ、みる者の「想像」がそれと重なり合うとき、本展が完成するというのだ。

 壁の向こう側にひとたびふれたとき、この展覧会はすぐさま橋になる。本展がたとえ国家的大イベントの年に向けて企画されたものだとしても、その意義にただおさまるはずもない。アートシーンにおいて、まさにモニュメンタルな展覧会であったといえよう。

*1──「Walls & Bridges 世界にふれる、世界を生きる」展カタログ、東京都美術館、2021年、250頁。
*2──同上書、252-253頁。
*3──増山たづ子『ふるさとの転居通知』情報センター出版局、1985年、122-132頁。
*4──前掲カタログ、251-252頁。
*5──同上書、251頁。
*6──このほか、企画に関わる箇所は、2021年10月5日に東京都美術館で行った中原へのインタビューによる。中原は、2014年にまったく同じ展示室で開催された「楽園としての芸術」展で、「アトリエ・エレマン・プレザン」(三重、東京)と「しょうぶ学園」(鹿児島)のふたつの施設から、ダウン症の人や知的障害のある人の創作を取り上げた経験があるが、その際もいずれの言葉も用いていない。
*7──とくに2000年代半ば以降、国内では「アール・ブリュット」が熱心に用いられてきたが、2015年頃より「障害者の芸術表現」との結びつきが強い傾向に対して、ジャン・デュビュッフェが提唱した原語の定義との乖離などが指摘され、近年はその言葉の使用のトーンは幾分落ち着いている。
*8──安野光雅「田園に咲いた花」『原風景のなかへ』山川出版社、2013年、53-57頁。安野は東の作品に言及する際に、アンリ・ルソーとナイーブ派の関係を引き合いに出して指摘した。