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2021.8.2

作品を「復活」させるとはどういうことか。平諭一郎評「宇佐美圭司 よみがえる画家」展

2018年、東京大学中央食堂に展示されていた宇佐美圭司の絵画作品《きずな》が、過失により廃棄されたことが発覚した。この件の反省を経て、同大学にて本作の再制作を含む宇佐美の回顧展が開催された。本展について、芸術の保存・継承研究を専門とする筆者が論じる。

平諭一郎=文

展示風景より。写真中央右が《花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも》(通称《大ガラス》東京ヴァージョン、1980)
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よみがえるということ

「よみがえる画家」と題されている。どうやら画家はすでに不在らしい。

 東京大学駒場博物館のリニューアルオープン企画であり、宇佐美圭司という画家の営みを振り返る重要な実践は、会場に集った作品の背後から、豊かな資料をもとに生まれた議論や試行錯誤が垣間見え、重層的な奥行きが感じられる展覧会となっている。そして、近現代美術の研究者や造形作家が執筆した展覧会カタログ、講演会やシンポジウムで語られる歴史や考察、おそらくはその総体によって宇佐美圭司が「よみがえる」ことを試みたものだ。とはいえ、宇佐美圭司という画家を美術史の観点から考察し、宇佐美の作品や活動を批評することはおよそ私の手に余る。そこで、本展の「よみがえる」という語に焦点を当てて考えてみることにする。

 美術展の題名に「よみがえる」という語が用いられることは少なくない。「よみがえる正倉院宝物」(*1)「よみがえるバロックの画家」(*2)「よみがえる1964年」(*3)など、ある特定の作者や様式、コレクションに関する作品を一堂に会し、その時代を再現するかのような展覧会を表している。ものの本によれば、「よみがえる」とは文字通りに黄泉の国から帰ってくる、死んだもの(もしくは死にかけたもの)が生き返ること、また衰退したものが再び隆盛することを意味する。そして、それは死んだものは「よみがえらない」ことを前提とした比喩表現として了解されている。

東京大学中央食堂に設置された1977年頃の《きずな》(1977)

 「宇佐美圭司 よみがえる画家」展は、宇佐美圭司の作品や資料と向き合い、その表現活動を再評価するという目的とともに、宇佐美がこの世を去ってからわずか5年後に、東京大学中央食堂に設置されていた絵画《きずな》(1977)が過って廃棄されるという、記憶の底に沈みかけた忘却からの復活(よみがえり)を意図しているだろう。廃棄された作品を「死んだ」ものとして扱おうとしているわけでは断じてないが、少なくとも物質として「失われた」ものの復活であることは相違ない。さらに展覧会場にて歩を進めると、失われた絵画《きずな》を含めた3つの作品が「よみがえる」ことについての再考を私たちに促しているようである。

 4つのキャンバスを組み合わせた巨大な画面に油彩で描かれた絵画《きずな》は、かつて設置されていた食堂内の様々な角度から撮られた写真を参考にして、新たな再現画像として制作された。その再現画像はオリジナルの絵画の1/5ほどの大きさの紙に印刷して展示され、さらに展示室入口上方の壁面にはオリジナルの絵画と同寸の再現画像がプロジェクターで投影されている。上述のとおりオリジナルの絵画《きずな》は物質的にこの世に存在せず、ここで試みられていることは失われた画像(イメージ)の復活である。

きずな 1977/2018–21 再現映像作成=笠原浩

 また、グラデーションによって各要素の関係性を三次元的に構成していた絵画のみならず、レーザー光線の一筆描きによって実在の三次元空間に関係を構成した《Laser: Beam: Joint》(1968)が、約30年の時を経て再展示された。もやがかった空間の中に、宇佐美作品の代表的な様式である人体の形にくり抜かれた透明アクリル板(ネガ)と人体の形をした透明アクリル板(ポジ)のあいだを、レーザー光線が反射を繰り返しながら走り抜けている。作品を構成する物質としての素材(透明アクリル板)は当時と同じものであるが、展示空間やレーザー光線の仕様、鑑賞者の関与が1968年の展示とは異なり、本展のために新たに設えたこともあって2021年版の再制作として公開されている。ここでは、演奏や演劇のように作品が部分的に更新され再演される、鑑賞体験の復活が試みられている。

 そして、宇佐美作品のほかに本展の射程に広がりを与えている存在が、駒場博物館のシンボルとして常設展示されている《花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも》(通称《大ガラス》東京ヴァージョン、1980)だ。すでに語られている通り、フィラデルフィア美術館が所蔵するオリジナルヴァージョンのガラスが破損する前の姿を再現すべく、展示に供するためというよりは、その制作素材や技術の再現に主眼を置いた研究用の再現制作である(*4)。これは、完成形に至る道程を臨写するように制作過程の復活を表したものだろう。

Laser: Beam: Joint 1968/2021 個人蔵

 3つの作品はすべて、オリジナルヴァージョンの作者ではない他者によってそれぞれ、客体として、客観として、そして主体/主観として復活が試みられている。それらは時に再現、修復(もしくは修理)、復元(もしくは復原)、複製、再展示といった名で呼ばれ、歓喜をもって上演に迎えられ、閉幕後に静かに解体される仮初の再「制作」なのだ。そのように考えれば、《きずな》がオリジナルヴァージョンと同寸のキャンバスに油彩で再「制作」されず、画像として再現され、プロジェクターで原寸大に投影展示されている演出も頷ける。オリジナルヴァージョンがフィジカルなものである以上、厳密な意味での再現や復元は原理的に不可能であるから。であれば、なぜ「よみがえる」ことが必要なのか、なぜ「よみがえる」ことを欲するのか、そもそもミュージアムや我々はその権利を有するのだろうか。失われたものは「よみがえらない」ことを了解しているからこそ、我々は仮初の復活を望み、それを了承するのだろう。

 しかし、それでもなお、再建、再興によって復活する建造物や祭礼のように、原寸大の油彩で描かれた《きずな》を、東京大学中央食堂で見てみたいと思う衝動に駆られるのは私だけだろうか。

*1── https://shosoin.exhibit.jp
*2── https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2015guercino.html
*3──https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/87/
*4──西野嘉章「芸術における「オリジナリティ」とは何か?」、西野嘉章編『真贋のはざま―デュシャンから遺伝子まで』東京大学出版会、2001年