不在—存在のグラデーション
砂守勝巳写真展「黙示する風景」(*1)は、「釜ヶ崎」(1970年代〜1998)、「広島」(1980)、「雲仙」(1993〜95)、「沖縄」(1989)に加え、壁面に連続投影される未発表写真で構成されていた。57歳という若さでこの世を去り、没後10年を経て呼び覚まされた砂守勝巳とは何者だったのか。
2月の寒空のなか、都幾川と畑に囲まれた丸木美術館のひんやりした廊下を進むと、アスファルト上の焚き火に当たる労働者たちの「釜ヶ崎」が出迎えた。防寒はしてきたつもりであったが、屋外より冷え込む館内において、いくら写真とはいえ、轟々と燃える火柱はわたしを安堵させた。湯気を伴った炊き出しの写真を前に不意に腹が鳴る。この身体の反応は、砂守がそこでおよそ2年間生活し馴染んだことが観者にもたらす特別な距離感、つまり、砂守を介した釜ヶ崎との空想の親和性によるものだろう。
すぐ先の壁に投影された未発表写真は、彼の関心が知られざる多方向に向けられていたことを淡々と示し、後に続く無人の風景群と「釜ヶ崎」を巧みに媒介させていた(*2)。それが同時に、「釜ヶ崎」のヒューマニズムを浄化する作用を担っていたようにも思われた(あるいは残り香としてのヒューマニズムは、すべての展示を見終わったあと、帰路で見直された「釜ヶ崎」に宿るのかもしれない)。
大展示室には、「原爆スラム」のバラックをモノクロームで撮影した「広島」、雲仙普賢岳の噴火による被災地を静物の如くとらえた「雲仙」(*3)、アメリカの影を落とした生まれ故郷の古びたネオンや漆喰の剥がれ落ちた家屋の「沖縄」が展示された。無人の風景であること以上にこれらに相関性を感じ取ってしまうのは、「置き去り」と「生活感」がダブルイメージとして全体に共鳴しあっていたからだろう。一見して廃屋と見紛う「広島」のバラックや「沖縄」の古い家屋のイメージのなかにふと現れる自転車や車、あるいは物干し竿に整然と並べられた洗濯物の存在は、われわれの意識のなかで不在感覚と現在進行形の生活感を往来させる。また、生活をまるごと覆い隠してしまった分厚い火山灰の「雲仙」は、かつての「営み」を、現在進行形の不在=強烈な存在感の化石として表象していた。それらはとりもなおさず、置き去りにされながら、それでもなお父の温もりを求めた砂守のトラウマティックな原体験にほかならなかった。
ある日、父がぼくの視界から忽然と消えた。(中略)少年のぼくにとって、父がある日を境にぷっつりといなくなってしまったことは、たまらなく理不尽なことであった。(*4)
砂守は、奄美大島出身の母と在沖縄米軍基地のエンジニアであったフィリピン人の父とのあいだに1951年、沖縄県浦添市で生まれた。その後、母の故郷奄美大島に移住、砂守が8歳の時に父は姿を消し、15歳の年に母は病死した。その直後、砂守はある決心のもと単身大阪へ向かう。プロボクサーになるためであった。ボクシングジム「神林拳闘会」(*5)で腕を磨き、プロデビュー戦を迎えたのは、ベトナム戦争のただなか、生まれ故郷の沖縄においては米軍基地がフル稼働し、全国的な反戦反米運動が最高潮に達した1969年のことだった。砂守は、両親を失くした「理不尽」さを打開すべく、プロボクサーを目指し、フィリピンに消え去った父との再会を目論んだのだ。突拍子もなく聞こえるかもしれないが、父の名を冠した「サベロン砂守」というリングネームで勝ち進み、フィリピン遠征の場においてその名がコールされたとき、きっと父に会える、彼は疑いもなくそう確信したのだった。
結果としてこの目論みは西日本新人王座の辞退(*6)というかたちで幕を閉じたが、その無謀で咄嗟な行動力には驚かされる。また彼の父親探しが、自らを「見つけさせる」ことに尽くした点も興味深い。彼は、指名手配犯の顔や名前が公にさらされるのと似たやり方で、注目される=掲示されることで自らを父に見つけさせようとしたのだった。この経験を出発点に、その後の砂守の思想は、注目されること(プロボクサー)と注視すること(週刊誌カメラマン/写真家)の二重性をつねに内面化させていたように思われる。
また、砂守は文章にも長けていた。彼にとって、言葉とは、自らの内に潜む二面性をつなぎ止め、否定と肯定を縦横し反転させるためのロジックであったようだ。見ることと見られることのあいだに「言葉」があり、その裂け目のなかに砂守勝巳はいた。両親を失った彼の言葉と写真は、接触できぬ父の「不在」と母の死による「非在」のおぼろげ且つ圧倒的な存在感にもたらされた「黙示」によって突き動かされていたのである。
帰り際わたしは、背中に不在を感じたまま、「釜ヶ崎」の労働者の話し声と炊き出しの匂い、そして焚き火の音を横目に、不在と存在のグラデーションの最中を通り抜け帰路についた。
*1──展覧会タイトルは、長崎県雲仙普賢岳噴火を主題にした写真展「黙示の町」(銀座ニコンサロン・大阪ニコンサロン、1995)に由来する。また砂守は、生まれ故郷の沖縄・奄美を「追憶の町」とも形容している。(砂守勝巳『沖縄シャウト』(講談社、2000、9頁)より。同書は『オキナワン・シャウト』(筑摩書房、1992)に加筆・修正を加え新たに刊行されたもの。
*2──補足。投影された未発表の写真群は、魚、花、寺院、仏像、ヌード、ポートレートとその被写体も表現手法も異なっており、あれもこれもという印象を受けた。これらが《釜ヶ崎》の人情味から無人の風景群への媒介として見事に機能していた。意識の撹乱であり、ヒューマニズムの脱臭、そして不在への接続である。本展においてもっとも重要な役割を担っていたように思う。
*3──開催に併せて執筆された先行研究、椹木野衣「美術と時評91:砂守勝巳—風景が黙示する(1〜3)」(ARTiT Magazine連載、2020年3月26日)に詳しい。
*4──砂守勝巳『漂う島とまる水』(クレオ、1995)より、下線は引用者による。第15回土門拳賞、第46回日本写真協会新人賞受賞作。
*5──砂守が「神林拳闘会」に直行したのは、このジムを舞台に、フィリピン行きを挫折しトレーナーに転向した男が、若手のボクサーの育成に励むドキュメント番組を見かけたからであり、フィリピン遠征の言葉に体が反応してのことだった(『沖縄シャウト』講談社文庫、2000、145〜146頁)。
*6──フィリピン遠征目前のウェルター級・西日本新人王戦は、権利を持つ選手の突然の棄権により、自動的に砂守が新人王の座に就くことが決定してしまう。彼はそれを辞退する。幼少期から体力と運動に誰よりも自信を持つ反面、気の弱い少年で、喧嘩すらしたことがなかったという彼は、プレッシャーと人を殴り続けることへの精神的な限界を抱き、この機にグローブを脱いだ。それは同時にフィリピン遠征=父との再会の断念でもあった(砂守、前掲書、171〜172頁)。