「虚無の声」に耳を傾ける
いま京都学派を扱うこと
いま「京都学派」と聞くと、どんな反応があるだろう。京都学派について、私自身は太平洋戦争を思想面で支えることになった、影を孕んだ過去のものという程の印象しか持っていなかった。西田幾多郎や三木清についてなら多少知っているけれど、京都学派四天王と呼ばれた哲学者たちの名前を言える人は、日本の哲学を専門に学んだわけでもないかぎり、そう多くないだろう。今回、シンガポール出身の作家ホー・ツーニェンが個展「ヴォイス・オブ・ヴォイド−虚無の声」で扱うのは、この京都学派の哲学者たちである。ホーが京都学派について取り上げるのは、あいちトリエンナーレ2019の《旅館アポリア》に続いて二度目である。そのときは、軍部報道班員として東南アジアに派遣された映画監督の小津安二郎やマンガ家の横山隆一、また会場となった旅館でその地を発つ最後の夜を過ごした特攻隊員らとともに、登場人物の一員としてであった。しかし今回は、京都学派の哲学者のみに焦点が当たっている。
戦後何度か議論の俎上に載ったものの、現在はほぼ忘れられていると言っていい、これらの哲学者たちを改めて取り上げるのは、ただ戦争を支えることになった論理を批判するためでも、もちろんそれを正当化するためでもない。現代の地点から判断を下す前に、当時戦争に向かう過程で様々な力が交錯していたことに、まず目を向けてみるということだろう。京都学派の思想自体が、右派も左派も含んだ相矛盾する要素をその内に抱え込んだ、まさに戦中の日本の複雑さや曖昧さそのものなのである。
過去の時空間に身を置く
今回の展示を構築するのは、VRと3対6面のスクリーンである。その中心となるVRは、対称性を孕んだ京都学派の思想のネットワークを、ひとつの世界の雛形として現前させる。青い空のなかに、球形と横倒しになった十字架のような形状が浮かんでいる。ヘッドマウントディスプレイを装着した“私”は、まず球形の中に入っていく。するとそこは、京都の料亭「左阿彌」の茶室であり、目前で京都学派四天王と言われた哲学者の高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、そして歴史家の鈴木成高ら若い学者たちが、快活に議論を交わしている。そこで展開されているのは、真珠湾攻撃が行われる2週間前の1941年11月に行われた座談会「世界史的立場と日本」である(*1)。そこでは、近代を持たないとされてきた東洋の日本がそれを持ったゆえの、今後果たすべき「世界史的な役割」が、意気揚々と話し合われている。ふと俯けば、スーツを着た自らの手や膝が見え、どうやら“私”はそこにいる速記者の身体に憑依しているらしい。“私”はそこで彼らの討論を淡々と書き留めているのだが、手を止めると戦場の残虐な様子を詠んだ歌が聴こえてくる。それはいま身体を借りている速記者が、戦中に目にした光景のようなのだ。日本がこれから担うべき世界史的役割についての高揚した語りと、脳内に響く現実の戦場の光景。そのおそろしさに身じろぎもできずにいると、今度は料亭の一室はどこまでも広がる瞑想空間になり、“私”は西田幾多郎の1938年の講義「日本文化の問題」を聴きながら座禅をしている。そこはまるで、流れる時間のなかで永遠のいまをとらえたかのような、超越的かつ崇高な時空間である。
立ち上がると、今度は球形の世界を抜けて、“私”はいつの間にかロボット・アニメーションに出てくるようなモビル・スーツを身にまとい、空を駆けている。そこで聴こえてくるのは、1943年に田辺元が京都大学で行なった「死生」の講義である。「即ち自己の生を死に投ずるから、こっちと向こうが入れ代り、生と死が入れ代わって、死生を超越するのである」。田辺の講義は、戦局が悪化し学徒動員が進められるなか、学生たちが戦地や特攻に赴くことを鼓舞することになった。気づけば無数に空に浮かんでいる兵士たちと同じく、“私”が身につけているモビル・スーツはバラバラと崩壊していく。
横たわると、今度は空の高みからどんどんと落ちていき、料亭の個室も突き抜けて、“私”は深く牢獄の一室へと潜り込んでいく。横倒しの十字架に見えたものは、三木清が1945年に知人の逃走を助けたかどで検挙され、終戦後1ヶ月以上も経った9月26日に獄死した豊多摩刑務所であった。そこで“私”は獄中の人となり、床に横たわったまま光るものを目で追えばそれは地を這う蛆虫であり、排泄物も垂れ流しのままになっている。そこでは、京都学派左派と言われた三木の1938年の「支那事変の世界史的意義」と、戸坂潤の37年の「平和論の考察」の朗読が聴こえてくる。戸坂も同じく治安維持法違反で逮捕され、終戦直前に長野刑務所で亡くなっている(*2)。どちらも、牢獄の衛生状態の悪さに起因する、猛烈な痒みを伴う疥癬がその原因であった。
崇高な意志を掲げ過ぎれば人は空をも駆けてやがて散り、時代の趨勢に背けば暗い地の底まで落ちて死に至る。しかし戦場や牢獄から遠く離れた日常空間では机上の空論が展開され、それを眺める脳内には戦地の悲惨な情景が聴こえている。その中心で、それらすべてを媒介しつつつなぐのは、西田の広大無辺な「無」である。VRは、大抵鑑賞者の日常的な身体感覚に合わせて、首を動かして見える範囲で水平方向に展開していくが、本作では移動する度に違う“私”になって、上下に異なる層を移動していく。それはVRならではの手法で、戦争をめぐる対称性を孕んだ京都学派の思想のネットワークを、目まぐるしいほど大胆に、戦慄感とともに体感させるものである。
京都学派の「無」
その京都学派に、左翼知識人として最後まで戦争に抵抗したと目される三木清が加えられていることに、戸惑う人もいるだろう。しかし、京都学派を戦中の負の歴史に限定せず、西田や田辺の元で「無」の思想を学び、それぞれ展開した思想の全体ととらえれば、より時代の複雑さが見えてくる。三木でさえ、作中で朗読されているテキストからは、民族主義的要素が窺われるのである(*3)。京都学派は右派と左派両方の思想を含むが、それは白黒きれいに分けられるものでもない。この時代、多くの知識人や文化人が右に左に揺れ動いたことは、私たちもよく知るところである。そこには、時代の魔に魅入られ翻弄されたケースや、身を守るためにやむなく暗号のように意志を潜めるしかなかったケースもあっただろう。そして、いま改めて京都学派の思想を知ろうとするとき、そのすべてを容易に断罪することも、また許容することもできないことがわかる。その京都学派の複雑な思想のグラデーションは、すべて西田幾多郎が用意した創造的真空の「無」から生じている。
西田の「無」は、西洋の絶対的な存在としての「有」に対して、ただ「無い」ことを意味するのではなく、「無」であり「有」でもあるといった、肯定的な意義を持つ。参禅の体験を通して得たという、まるで禅問答のような「無」は、西洋文明に対して、東洋の文化や精神の精髄を措定した。そして、「無」は私心を超えた自己否定において機能するというとき、道徳的に善なるものや美なるものにも、また滅私奉公的な自己破壊にもつながる可能性があった。西田は座談会に参加したわけでなく、終戦を待たずして亡くなっており、その思想は時代から距離を取った、より抽象的で広義なもののように思える。しかし座禅室に響く西田の言葉からもまた、高次の道徳性とともに、戦争の肯定とも受け取れる言葉が聴こえてくるのである。この二重性は、戦中の京都学派全体に及んでおり、彼らは戦争に際して帝国主義的行いを戒め道義的意義を説きながらも、そこにアジア諸国に対する視座をまったく欠いていた。それでも、京都学派が提示した問題には、ほぼ80年が経過したいまでも有効と思われるものがある。科学主義や合理主義の進展のなかで新たな人間のあり方を見出すことはできるのか、西洋文明に対して日本を含めた東洋の伝統的精神の意義をどう位置付けるのか、またアジアにおける共同体の可能性はあった(ある)のか。そしてそう自問してみた途端に、それが諸刃の剣であることに気づく。東洋の伝統文化や精神の称揚は、固有の文化が失われつつあるなかで重要な問題であり続けるが、加速度的に移り変わる世界を前に、普遍性や真正性を問い続けることはどんな意義を持つのだろう。京都学派の二重性を抱えた「無」は、いまも私たちのなかにある。
虚無の声
VRのヘッドマウントディスプレイを装着すれば,“私”は座談会「世界史的立場と日本」の速記者となり、兵士となって空を飛び、また囚われの人として床に身を横たえて、過去の時空間に身を置く。しかしそこで展開される世界はアニメーションであり、それが架空であることを告げる。空中でモビル・スーツが崩壊し、地下で牢獄の床をのたうち回ったとしても、私たちの身体は痛みも痒みも感じない。このVRにより見えている世界と身体感覚の「ずれ」は、そのまま京都学派の理念と現実感覚の欠如に重なる。そのような仮想現実のなかで、いまを生きる人たちが吹き込んだ声だけが、リアルなものとして聴こえてくる。それらの声は、脳内で響いたり、耳元で囁いたり、また空の向こうから届いて、生の感触を伝える。
私たち自身も、歴史的存在として、いつも時代や社会の一定の先入観のなかに投げ込まれている。体を現在に置いたまま、多層的に聴こえてくる過去の声に耳を傾けてみる。そうすると、単線的な歴史観から抜け落ちていた時代の複雑さや曖昧さが、当時のままに聴こえてくるだろう。私たちの文化と精神構造の中心には、まだ容易に周囲に左右される巨大な真空がある。過去の声を聴きながら、そこに身を置いたとしたらどうなるか、どうするかを、自らに問うてみる。歴史はたんに過去の事実ではなく、現在の鏡なのだから。
*1──第1回「世界史的立場と日本」は1941年11月26日に実施され42年『中央公論』1月号に掲載、第2回「東亜共栄圏の倫理性と歴史性」は42年3月4日に実施され同年『中央公論』4月号に掲載、第3回「総力戦の哲学」は42年11月24日に実施され43年『中央公論』1月号に掲載されている(現在書籍として入手できない)。京都学派四天王の西谷と鈴木に加え、小林秀雄や河上徹太郎などの著名な文学者や批評家、科学者たちが参加したことでより知られている1942年の座談会「近代の超克」では、「日本にとっての近代とはなにか」を論じられた(竹内好ほか『近代の超克』富山房、1979)。これら2つの座談会が戦後糾弾され、京都学派に暗い影を落とした。
*2──戸坂潤は1938年に治安維持法違反により検挙され、40年に保釈出所したが、敗戦を見越して44年に自ら下獄、終戦直前の45年8月6日に長野刑務所で亡くなった。
*3──三木清の1938年の「支那事変の世界史的意義」は、近衛文麿のブレーンとして33年に発足した昭和研究会で行われた講演であり、のちに「東亜共同体論」の母体になった。