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REVIEW - 2019.10.23

幾重にも重ねられた〈声〉がつむぐストーリーとは。大岩雄典評 ホー・ツーニェン《旅館アポリア》

シンガポールを拠点とし、歴史や社会状況のリサーチに基づく批評性を含んだ作品を手がけるホー・ツーニェン。「あいちトリエンナーレ2019」の参加作家として、豊田駅にほど近い、元料理旅館・喜楽亭を舞台に新作を発表した。第2次大戦中に特攻隊が最後の夜を過ごしたという史実に根ざし、戦中の思想家や文化人らの言動をモチーフに取り入れた同作品について、アーティストの大岩雄典が作品の構成に呼応するかたちでレビューを寄せた。

大岩雄典=文

ホー・ツーニェン《旅館アポリア》(2019)展示風景  Photo by Hiroshi Tanigawa

《旅館アポリア》についての報告

 「親愛なるツーニェン、

 件の芸術祭にて、興味深いものを観たので報告します。愛知県の豊田市、喜楽亭という旧い建物で展示されていた《旅館アポリア》という作品ですが、驚くなかれ、その作家の名は『ホー・ツーニェン』──そう、親愛なるツーニェン、貴方と同じ名前なのです。はじめ、貴方が貴方の名を騙ってわたくしをからかっているのかとさえ思いました。まるでエラリイのように。とまれ、以下その作品について……。

 12分の映像が7つ、亭内の4ヶ所のスクリーンに割り振られて上映されており、来場者は順に観て回ります。この大正期の風情を残す町屋建築は、明治の末から昭和中期まで旅館を営んでいたようですが、とくに第2次大戦末期、神風特別攻撃隊の草薙隊が、出撃前夜を過ごしたと。それが題材です。7つの映像は、軍部と京都学派哲学者との思想的癒着、とくに西谷啓治や田辺元、また特攻隊員の手記や写真、さらに宣伝部隊──平たく言えばプロパガンダ部隊──に所属していた小津安二郎、横山隆一を題にとって、ナレーションが語ります。映像は、多くの写真や資料、小津の映画や横山のマンガ、アニメーションの引用から構成されます。しかし、人物の顔はことごとく、その肌の色で塗りつぶされて、のっぺらぼう。

 そういやわたくしも、貴方の顔をついぞ拝んだことがありません。

ホー・ツーニェン《旅館アポリア》(2019)展示風景  Photo by Hiroshi Tanigawa

 歴史的な抑圧を批評的な語り口で結んでゆくその手法は、レクチャーの性質を持つ映像作品、という一ジャンルをいまや形成しています。ヒト・シュタイエルをご存知ですか。シュタイエルは、市井を離れた情報環境について、その軍事利用や資本との……閑話休題。紙と言えども貴重な昨今、紙幅はありません。わたくしはこの手紙を2000字で済ますつもりです。

 手紙と言えば──《旅館アポリア》について論うべき点があります。さような「レクチャーもの」は、ある〈声〉を否応なく帯びる傾向にあります。事実の抑圧を暴露する、あたかも中立的な声。「リサーチ」という語の科学的な響き。ええ、「科学の声」とはよく言ったものです。そこで話しているのは誰か。むろん作家本人と、物語の語り手とを同一視するわけにゆきません。しかしその声の主が見えぬことは、あたかもその啓蒙や告発が 無辜 むこであるように立ち回りませんか。ですが、特定の資料を参照すること、選ぶこと、要約すること、並べ立てること、デクパージュ、逐語引用するか、間接話法で示すか、直接話法で示すか、そもそも何かを示すということ──そうした修辞的なしぐさは、指すところのものと、言葉の機械的な作動との脱輪を操るはずです。「科学」や「事実」、「適当」という言辞ほど、一見無色であるがゆえにむしろ政治的な行為を遂行させるように。わたくしたちは、その「無」に──西田幾多郎の「絶対無」や西谷啓治の「空」こそ、散華の思想を支える筋金だった、と《旅館アポリア》は語りますが──「無」のような言辞に、「事実だなんて御為ごかしだ」とでも、「まさに適当、天誅かくあるべし」とでも、理解できる文脈を斟酌してあてがってしまうでしょう。

 さて《旅館アポリア》の「声」は郵便の声です。上述のナレーションとは、作家ツーニェンに届けられた手紙の読み上げなのです。差出人はトモ、ヨーコ、カズエの3人で、それぞれ、京都学派なり特攻隊なり、小津なりについて調べ、作家に報告するエージェントです。例えば、小津の墓に「無」の一文字が刻まれていると報告するのはヨーコ、「無」の理念こそ特攻に肝要だったことを報告するのはトモ。それゆえ、何か必然的あるいは偶然的な結びつきを〈空耳〉するのは、語り手つまり報告者のではなく、それを聞き接ぐ者──手紙を受け取る作家の、あるいは鑑賞者の、いや、それをまた報告するわたくしの、いや、この手紙を読んでいる貴方が果たしてしまう「務め」なのです。

 書かれて並んでいる何がしかが、なぜこう有機的に意味を語るのか、考えていますね、貴方。

 小津と西田の二つの「無」になんらかの絆を見出すのは由なく、滑稽かも知れません。しかしそれも、「無」の形而上学を、出撃する「空」に重ね合わせるという軍部の構想と、何が違いましょう(What’s the difference)? 小津映画の子供と横山隆一の子供の画を重ねるのは、まったく恣意的です。ましてや小津映画の、退役軍人の口ずさむ戦時歌謡の詞に、戦争の回帰する強迫──フランスでは幽霊を「回帰するもの(revenant)」と呼びますが──を作家は仄めかしますが、わたくしはもう、そのありふれた強迫さえ無邪気に思います。そこではすでに「戦争の回帰」を回帰させている。

 トモが「風邪を引いた」と告げるくだりがありましたね。風邪は万病のもと。風邪菌は、わたくしたちに必然的に空いた孔──口に入り、また口から伝染り、至るところに潜伏しているのです。

 親愛なるツーニェン、他愛ない気づかいですが、どうかご自愛を」。

ホー・ツーニェン《旅館アポリア》(2019)展示風景  Photo by Takeshi Hirabayhashi

 

返信

 「ご報告ありがとうございます。

 自身の名を騙るエラリイ……クイーンのことですね。エラリイ・クイーンの推理小説には、虚偽の証拠に振り回されたり、逆に自白を真面目に受け取らなかったりと、有機的なまとまりある推理という構想が挫かれるものが多く、興味深いです。

 《旅館アポリア》、遅れ馳せながら実見しました。たしかに、哲学書、手記、歌詞の訳詞等々の引用にあふれた内容だけでなく、実際に流れる声も、幾重にも重ねられていました。アニメーションのキャラクターのような、人格をまとう声、ナレーションのような謹厚な声、ささやき声、それに加えて、小津の映画のなかの声まで重なるのですから。声優の性別もまぜこぜだったように思います。

  いや、「声は複数ある」ことを貴方がことさら重視するから、音響の演出もそう納得して理解できるのかもしれませんが。

  件の芸術祭は、見えないもの、見えがたき状況を可視化せんという気概を感じました。しかし、発話や展示といった行為がどのような機能を持つかと、それがわたくしたちの心を借りてもたらす行為とは、区別しなければなりません。何かを見せることが、その何かが事実であると信じ込ませることを導くとき、そこでは文彩がここぞとばかりに振る舞っています──そうでないと、フィクションという分野は成立しなくなってしまう。だから批評というものが、それがまるでノンフィクションであるように示す文彩をしばしば帯びていることに、つねづね警戒するべきです。作品も批評も、文法を持つ以上、何かの行為を鑑賞者なり読者なりに媒介しようとしているのですから。ある抑圧を可視化するというのも、啓蒙と名付けられた歴とした文法のもとでの仕草です。そのような志向の作品ほど、斟酌や誤解といったものを、わたくしたちの心のなかに引き起こしうる、そしてときに、勝手に起こるよう仕向けていることに、敏感であるべきでしょう。とりわけ、批評的な性格を持つテクストが、作品やキュレーションと不可分になった今日では。

  結局声を与える役目はわたくしたちに転嫁されてさえありうるのです。ですから、貴方のような、どこの誰とも知れぬ人物の手紙もまた、簡単に信用するわけにはゆきません。風邪と口の提喩など、恣意的にもほどがあります。

  この期におよんで「親愛」「他愛」「自愛」などと並べて、ジャン=ジャック・ルソーまがいの、自と他とを惑わせ、そうして語の機能をすり替える言葉遊びです。「常に別者であり、常に彼女になりたい、彼女を見つめ、愛し愛されるのを願っているのだ〔…〕」(ルソー「ピュグマリオン」より、*1)。

 「アポリア」とは言語そのもののアポリアです。「自己の比喩的な構造を主張する言説は、みずからが脱構築すると主張する諸カテゴリーから逃れられてはいない。そして、このことはもちろん、このアポリアという比喩をみずから再-記入する〔re-inscrive〕と主張するすべての言説にもあてはまるだろう」(*2)。

 批評もまた、みずからがいかなる声を纏うかに、無邪気でいるわけにはゆきません。批評が当の展示の言葉づかいに迎合することもあまりに破廉恥で……おっと、あくまで貴方は、この手紙は「報告」だと報告していました」。

 

*1──ポール・ド・マン『読むことのアレゴリー』土田友則訳、岩波書店、1979/2012年、p.239。
*2──前掲書、p.242。