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INTERVIEW - 2018.7.1

境界線上をさまようトラと 「トラ人間」が示す、近代化の光と闇。
ホー・ツーニェンに聞く

シンガポール出身のホー・ツーニェンの表現は映像、演劇、観客参加型など多岐にわたる。トラを通して歴史をさかのぼる連作においても、複数の方法で試行錯誤を重ねた。その最終形となる《一頭あるいは数頭のトラ》(2017)を今年2月に日本で発表したホーに、創造の源泉を尋ねた。

桂真菜(舞踊・演劇評論家)=文

KAAT(神奈川芸術劇場)にて 撮影=前澤秀登

KAAT(神奈川芸術劇場)にて 撮影=前澤秀登

アイデンティティを確かめる宗教も言語もない 精神的ホームレスの私には、 宙づりで浮遊する感覚が創作の鍵です。

 オブジェ、映像、生身の俳優などを組み合わすホー・ツーニェンの手腕は、ウィーン芸術週間2014やハノーファーのテアターフォルメン2016などの演劇祭に招かれた『一万頭のトラ』(2014)でも十全に発揮された。旧式のテープレコーダーや蓄音機、ラジオ、そしてスクリーンを配した台の上で、俳優たちが「トラ」と呼ばれた人々(マラヤ共産党のゲリラ、大日本帝国軍人、辺境の住民など)を、多言語で演じる。近代化をめぐる人類の葛藤を、トラ(絶滅危惧種の猛獣が象徴する多様なもの)や、「トラ人間」(トラに変身した人、そう見えるものなど)が相対化する構想は、生態系も案じるアーティストの広い視野を伝えた。

TPAM2018 での《一頭あるいは数頭のトラ》(2017)上演風景 撮影=前澤秀登

 ここで簡単にホーの出身地の歴史をたどろう。1965年にマラヤ連邦から独立した島国の都市国家シンガポールは、1824年に英国領となり、1942年から3年間は日本の軍政下に置かれ、戦後から63年にかけて再び英国の支配を受けた。この複雑な歴史を考えるシリーズに、ホーは現在まで10年あまり取り組んでいる。

 「東南アジアでは宗教や民族が複雑に絡み、マレー半島の変遷を語るうえでも立場によって観点が違います。そこで動物の視線も入れ、トーマス・ラッフルズ(1781~1826)による英国の植民地建設以前の時空もめぐろう、と考えました」。

 今年2月、TPAM (国際舞台芸術ミーティングin横浜)2018のプログラムとして発表された《一頭あるいは数頭のトラ》(2017)は、前述の『一万頭のトラ』に連なるシリーズの最新作であり、植民者がマレートラを激減させた悲惨な史実を告げるシアトリカル・インスタレーションだ。TPAM2017に参加したタイの作家アピチャッポン・ウィーラセタクンは、『トロピカル・マラディ』(2004)で、タイの森で人がトラになる姿を描き出した。同作には中島敦(1909~ 42)の『山月記』(1942)が引用されるが、この小説は中国清朝(1616~1911)の説話集に収められた変身譚「人虎伝」に基づく。博物学者、南方熊楠(1867~1941)が著した『十二支考』にも、史書や伝承から採ったトラと人の関係が残る。トラは各地で親しまれつつ畏れられるが、ホーにとってはどんな存在なのか。

 「何かと何かのあいだで生きる媒体です。例えば祖先の魂が入るもの。文明と自然の境を往来するもの。社会で生活するものと、社会の外側にいるものをつなぐ巫女のような霊的な面もある。ポジティブかネガティブか、どちらかに固定されないトラはつねに揺らいでいる。そんな曖昧な状態は私の内面に呼応します。私はシンガポールを特定の場所としてとらえていません。つねに流れのなかにあり、多層的なネットワークのあいだを漂っていますから」。

TPAM2018での《一頭あるいは数頭のトラ》(2017)の上演風景。向かい合う2面のスクリーンにアニメーション映像が映し出される 撮影=前澤秀登

 スクリーンに映るものがふわりと抜け出さんばかりの無重力感も、ホーの寄る辺ない心情に根差している。

 「生家の信仰はタオ(道教)ですが、万物に霊を見出すアニミズムとタオが混じった多神教に近い雰囲気のなかで育ちました。パスポートには中国人と記され、両親に倣いマンダリン(現在の中国の標準語)を話します。しかし、本土を訪れると自分は中国人ではないな、と疎外感を抱く。周囲にはシングリッシュ(シンガポール訛りの英語)があふれ、仕事相手や妻とは英語で話すけれど、母語ではないのでなじめません。アイデンティティを確かめる宗教も言語もない精神的ホームレスの私には、宙づりで浮遊する感覚が創作の鍵です」。

 目を伏せて続ける声に、寂寥が漂う。「都会化を急ぐアジアの人々は、トラ人間の神話を忘れ去ってしまう。不合理という理由で切り捨てず、神話がはらむ英知に気づいてほしい。動物を、現存するものというより失われるものとして眺める、現代人の習慣も残念です」。

ホーが触発されたハインリッヒ・ロイテマンによる木版画《シンガポールでの妨害された測量》(1888)

トラと人間、異類融合のイメージ

 本作の鑑賞者は、向かい合う2面のスクリーンを見ながら英語のナレーションを聴く。“Weretigers”(トラ人間)と“We're tigers” (我々はトラ)。2つの言葉のリフレイ

ンは、誰にでもトラ人間になる可能性があることを示す。「トラ人間をメタファーとしても使い、時に応じて様々なものを象徴します。例えば、辺境の住民、他国から訪れた侵略者……」。

 日本軍は大戦中にマレー半島を制圧し、シンガポールを昭南島と呼んだ。本作には「マレーの虎」と称された司令官、山下奉文(1885~1946)が登場。当時「大和魂を持つ英雄」と呼ばれた山下だが、捕虜や地元住民の目には「理不尽なトラ人間」と映ることもあっただろう。

 本作で語られる「トラに殺された者はトラに変身する」というテキストについて、吸血鬼伝説を思わせるとホーに告げると、作家はこのように語った。

 「なるほど。吸血鬼に近い伝染スタイルですが、トラは殺した獲物の血だけ吸って肉を捨てる、という科学的な説を根拠に書きました。少しずつ勢力を伸ばす生態を、ファシズムや共産主義の支持者が次第に増える現象に重ねる意図もあります」。

 映像の冒頭では一方のスクリーンに、英国政府からシンガポールの公共事業と囚人管理を任された公認測量士ジョージ・D・コールマン(1795~1844)の片目が拡大され、その眼球にはトラが宿る。コールマンとトラが見つめあって交信したり、コールマンの心身にトラが憑いたりする、異類融合のイメージだ。

 「複数の文化が共存する土壌で育った私には、別の次元に棲むもの同士をつなぐことは自然な流れ。異なる環境で生きる観客が本作を見て、誰がどの層に何を見出すかに興味を引かれます」。

 本作を織りなす様々な要素が焦点を結ぶのは、シンガポール国立博物館が収蔵する、ドイツの画家ハインリッヒ・ロイテマン(1824~1905)による木版画《シンガポールでの妨害された測量》(1888、P167下)。コールマンがインド人の囚人に運ばせていた経緯儀(測量のための器械)を、トラが壊した1835年の事件を扱ったこの版画には、襲いかかる猛獣、驚く人々、滑り落ちる文明の利器が描かれる。

 「虚構のなかに歴史があり、歴史的事実とされる点に虚構が潜む。木版画はこの信念に沿う作品です。描かれた光景の真偽は不明ですが、測量士とトラの対比を強調するために、囚人たちは配置された。そんな構図の解釈も成り立つはず。過酷な労働を強いられる囚人は隷属に甘んじず、各自が考えを持って生きていたと思います。土地を機械的に測る経緯儀は、計算と開発で自然をゆがめる。トラの襲撃は近代的な管理に対するレジスタンスとも読めるでしょう。密林で脅かされる支配者と最先端機器は、脆弱な基盤に立つ植民地の崩壊を予言します」。

 白ジャケットのコールマン、日傘を差しかけるターバンの男、転ぶ半裸の囚人、トラ、経緯儀。リトグラフの構成要素は、ホーの作品ではスクリーン内で立体化され、姿形を全方位にさらす。自然史博物館のジオラマが舞い上がるような魔術的ビジュアルだ。

アニメーションや影絵人形劇│多様な制作手法

 「私は宮崎駿監督『となりのトトロ』などが好きなアニメ・ファン。本作ではデジタル・アニメーションを使った創作に挑めて嬉しいです。トラはモデルを使わず、一からコンピュータ・グラフィックで作成。3ヶ月かけて少しずつ育て、ヴァーチャル・ペットに寄せる気持ちを知りましたよ。身振りも動物に頼らず、音楽と様々な声を担当したミュージシャンの所作を、モーションキャプチャーで取り込みました。コンピュータと人間の声を併せてトラをつくる作業で、“トラ人間はトラの形に祖先の魂が入る媒体”というナラティブを証明した思いです。囚人たちは生きている人間たちの周囲に180台のカメラを設置して、動きを3Dスキャンしました。暴力的にデータを取られる経験を彷彿させる手法は、監視され抑圧された囚人の窮状に重なります」。

《一頭あるいは数頭のトラ》(2017)のスチル映像 Courtesy of the artist

 アニメーション映像とともに、多様なマテリアルを用いる本作。終盤で、ロイテマン作の木版画から得たイメージは再び驚くべき展開を遂げる。片側に吊られた数枚のスクリーンのうち、客席に近い一枚が上昇してプロジェクターが止まると、その後ろに各モチーフを細い糸で支える構造があらわになる。色彩も模様も消え、半透明な生成りの革片と化したトラや人物は、複数のレイヤーの仕掛けを開示。その種明かしは、「拡大された一枚の版画の映像」という虚構を支えた手仕事や古典に観客を導く。「インドネシアの伝統芸能である影絵人形劇、ワヤン・クリを応用しました。ワヤンの意味は演劇、幽霊、影、想像。クリは革。人形の素材はトラの天敵、水牛の革です」。

TPAM2018での《一頭あるいは数頭のトラ》( 2017)の上演風景。片側のスクリーンの後ろに、ロイテマンの木版画を再現していた、伝統的な影絵人形劇を応用した複数のレイヤーが現れる 撮影=前澤秀登

 鑑賞後も胸に残るのは、自らをトラ人間と呼ぶ辺境の住民が、写真について語るシーン。まずナレーターが、英国の人類学者ウォルター・W・スキート(1866~1953)著『マレー半島の異教人種』(1906)を、「トラ人間の写真が載った最初の本」と紹介する。次いで、被写体となった辺境の住民が「我々はトラだ トラ人間だあなたは私を見る 写真を見るかのように(略)あなたがトラを愛するのは 写真を愛するのと同じ理由から」とささやく。

 ヴァラエティに富む話者が紡ぐテキストは、暴力に言及する際も哲学と詩情をたたえている。

 「リサーチ中のメモを貼り合わせたテキストには、私が触発された資料のエッセンスがにじむのかな。写真についてはロラン・バルト著『明るい部屋』(1980)の記述に共感した。トラの描写では、エロティシズムを探究したジョルジュ・バタイユの影響も受けました。何も生み出さずにひたすら消費するトラは、過剰な力を発散します。エネルギーをためて爆発させるセックスのように、時間の概念自体を壊す。その勢いはコールマンが運ぶ経緯儀がもたらす、秩序を覆す可能性をはらみます」。

ライヴ・パフォーマンス『一万頭のトラ』(2014)の上演風景 Photo by Ken Cheong

 本作の登場人物のほとんどが男性だ。実在した政治家や軍人は当然としても、ロイテマンの版画を博物館で眺める現代人も、すべて男性である。もし女性キャラクターが登場すれば、いっそう多様な視点が得られるのではないか。この問いには、「確かに、本作の世界観は男性に偏っていますね。女性が加われば何が起こるか、私も気にかけていました」と答える。 ジャングル開拓中に犠牲となった中国の移民など、亡霊の無念もすくいながら、ホーは告発を超えるヴィジョンを探す。笑顔で素早くトラを真似る仕草を見て、作品の滋味を育む養分は豊かなユーモアかもしれない、と思った。

「トラは、野蛮で危険なものとして描かれた時代を経て、いまは東南アジアの活況を表すポップ・アイコンとなり理想化が進みます。カワイイともてはやされる段階を含め、政治的および社会的な目的をも受け止める媒体として歩んでいくでしょう。弾力ある伸縮自在の存在で、つねに何かを注入しうるトラ。その柔軟性はアーティストがカテゴリーに縛られず、創造に向かううえでも大切ですね」。

『美術手帖』2018年6月号「ARTIST PICK UP」より)