コントラ・コンテナ──《Unearth》を中心に
治療はそれ自体で症状とは別の痛みを生じさせるが、麻酔によって知覚が人為的にキャンセルされると、私の口内環境は物の集合として扱われることが可能となる。治療が終わってしばらくすると麻酔の効果は減衰し、弾性的に日常が回帰する。 ここで思い出されるのが、2000年代初頭のソフトウェア・シンセサイザーだ。現在にくらべて非力な当時のパーソナル・コンピュータ上では、発音命令から実際の発音までに、音響合成のための演算が行われることによる遅延が生じる。(*1)
局所麻酔による痛みの遅れと、われわれの耳で判別できなくなりはしても原理的には今後も解消されないであろう「打鍵」から発音までの遅れ。この遅れのなかで人体は局所的に物になり、機械は演算を行う。この奇妙な想起=重ねあわせに相当するものが、大和田俊による「歯科治療をへて」と題されたこの2018年のエッセイと、このたび小山市立車屋美術館で行われた個展「破裂 OK ひろがり」のあいだにも見あたるだろうか。
大和田は点滴袋から酸の水溶液を垂らし、石灰岩が溶解する音を集音し聴かせる《Unearth》によってもっともよく知られているだろう。大地earthに否定の接頭辞un-が付いたこの語は「掘り出す」あるいはそこから派生して「暴く」といった意味をもつ動詞で、成り立ちも意味も”discover”という語に近い。異なるのは後者において取り去られるのは目的のものを隠す覆いであるのに対して、前者において取り出されるのが目的のものであるという点だ。本作が掘り出しているのはまず音であり、微生物の化石が溶かされ二酸化炭素を発生させる無数の微小な発泡の音だ。
しかしこれは名目的な事柄であって、実際にその音が聞こえるためには多くの条件を満たさなければならない。溶解により変形する岩と酸の飛沫によって故障する可能性のあるマイクは理想的な位置関係を逃れ続け、周囲の音、マイク−スピーカーの音量比、鑑賞者の位置や聴覚は、たとえ何かが聞こえてもそれが当の発泡音なのかどこかの段階で入り込んだノイズなのかを判別できなくする(とりわけ発泡音と機材由来のノイズを判別するのは難しい)。例えばいずれも2017年のグループ展である「Malformed Objects」(山本現代)や「裏声で歌へ」(小山市立車屋美術館)で制作された本作のバージョンが、壁に固定されたスピーカーに耳をくっつけて聴くという接触的な聴取の形態を採用していたことには、不確定性を増大させる空気という要素を可能な限り切り詰め、マイクと岩のあいだ──と、耳の中の空間──にそれを縮減させる態度を見て取れる。しかし同時に、その操作により鑑賞者の身体は壁に対して水平に固定され、部屋の中心に置かれた石やマイクをまっすぐ見ることができなくなってしまう。追い払われたかに見えた空隙は、今度は一方は頭の横に、他方は前に付いている視聴覚器官のあいだに滑り込む。
見えるときに聞こえない音と聞こえるときに見えない発音体とのすれ違いを調停するために、この作品についての名目的な概説にあらわれる言葉、2億数千年前の微生物の死骸だとか、化学反応による空気の組成の変化だとかいった、直接経験することのできない時間や状態についての言葉に寄りかかるべきなのだろうか。その場合われわれは、発音と聴取のあいだの空隙や視聴覚のすれ違いを言葉によって均し、空間および耳と眼の距離を縫合しなおすことになる。いま聴き、かつ見ているのはそういうものだと、岩や酸を鉤括弧に入れて(*2)。しかしそれは"unearth"という語が指し示すフィジカルな操作を裏切ってしまうことになるだろう。本作はこの両義性と隣りあわせであり、そのこと自体が魅力として機能してきた部分もあるにしても、このたびの「破裂 OK ひろがり」のバージョンはそれを振り切っているように思われる。
しかしその前に、2018年の阿児つばさとの2人展「真空ろまん」では、《Unearth》はそもそも聞こえるわけがないというステップを通過している。本展は京都のアートホテルkumagusukuの中庭で開催された。つまりそこには天井がない。セメントの床に置かれた岩に以前のように点滴とマイクが向けられており、いちおうスピーカーは比較的静かな室内の壁に設置されていた──やはり聴いているとき岩は見えない──が、発泡音を拾うほどのマイクが風の音の干渉を受けないとは思えない。また本展にはその日の降水確率がタイトルとなる作品があり、それは《Unearth》と同様の岩とマイクを用いているが、溶かした酸を垂らすのではなく粉末状の酸を岩に載せ、それを溶かす雨を待つという作品だった。雨が降ったところで当の雨音で溶解の音はかき消されるだろう。私が本展を訪れたときたしかこの作品は《100%》と呼ばれており、二条駅から会場に向かい駅に戻るまでずっと大雨が降っていた。2作品いずれのスピーカーに耳を付けてもその前から聞こえていた音が電気的に圧縮されたものが聞こえるだけで、かえって展示の前後を貫く雨音の途切れなさに気づかされたことのほうが印象に残っている。
聞こえる音の来歴に穿たれた空隙とそれを埋める言葉、聞かれるべき音と同時に用意されたそれを埋もれさせるノイズ。大和田は聞こえること、聞こえるものが何かわかることを同時に意味する「聞き−分けること」を"unearthing"にかかる摩擦によってすり潰す。しかしそれを汎ノイズ的な音の宇宙への開き直りとしてしまうと、言葉による縫合と同様、その具体性と実効性を同時に逸してしまうことになるだろう。この二重の困難に対処するためには、言葉で空隙を埋めるのではなく空隙の存在理由が語られなければならない(*3)。
「破裂 OK ひろがり」という本展のタイトルについて、大和田はインドを走る車の多くに掲示された”Sound OK Horn”(この場合の”sound”は「鳴らす」という意味の動詞だろう)という文句から着想を得たと述べている。信号が極端に少なく車線も曖昧で、膨大な車両が絶えずクラクションを鳴らしながら
1960〜70年代にベトナム戦争を背景としながら起こったコンテナ革命は、規格化されたコンテナとその運輸に関わる技術的−情報的システムの統一によって、陸運と海陸の質的な差異を均し、「時間通りにその場所まで」”Just in time, to the location”という現代的なロジスティクスの理想を体現している。それは港から荷役の労働者や倉庫を一掃し(例えば横浜の赤レンガ倉庫もコンテナ革命の犠牲者だ)、国境をまたいで生産拠点を分散し、途上国で安く労働力を賄う「サプライチェーン」の構築を準備した(*5)。いまや調理された食品さえもがその理想に巻き込まれており、注文の10秒後にはテーブルに乗っている牛丼、アプリを数度タップすれば数十分後に玄関にまだ暖かい料理を届けるウーバーイーツなど、ロジスティクス空間はわれわれの口元にまで迫っている。一方でコンテナで密入国を試みた移民がその中で死亡し、他方でコンテナはパンデミックを受けて生物学的封じ込め(biocontainment)を容易にする即席の集中治療室として転用されている(*6)。
均質なプラットフォームとその上を無音で滑る密封されたコンテナ。”Sound OK Horn”を「破裂 OK ひろがり」として捉えなおす本展は、音の必然性を反コンテナ(contra-container)的な空間を暴く破裂として追及していると言えるだろう(*7)。ロジスティクスにおいて内容(content)に対立するのは形式(form)ではなくコンテナであり、大和田はさらにそこに内外の気圧差によって引き起こされる破裂という現象を反コンテナ的なものとして対置している。
会場である小山市立車屋美術館の長細い空間が内耳と口腔をつなぐ耳管に見立てられ、口の動きによる気圧の変動にともないつねに大和田の耳の中で鳴っている耳管狭窄症の破裂音が響いている(《耳管の音》)。瓶詰めにされた──”contain”された──炭酸水と、汲み上げられた──”unearth”された──地下水からそれを製造するためのタンクやホースが展示され(《炭酸水》および《炭酸水製造機》)、ソナーのようにゆっくりと回転する、ウニの棘状に組まれた128本のマイクとスピーカーを結ぶケーブルが床を這い、回転の風音がスピーカーからのフィードバックによって増幅されつつうねっている(《Scales》)。
本展の《Unearth》は美術館から徒歩で15分ほど離れた野外に設置された。「ポンプ小屋」と呼ばれる、田んぼに地下水を汲み上げるためのポンプを雨風から守る小屋を模したものが、栃木的に真っ平らな思川沿いに広がる田んぼの隅に建てられている。壁がところどころアクリル板になっており、それを視覚的なスリットとして中に置かれた岩、点滴袋、マイクを見ることができる。その傍に建てられた高い木の柱の先には町内放送に用いるようなスピーカーが取り付けられ、マイクからつながるケーブルと、電力を供給するために既存の電柱から増設された電線がそこから伸びている。仮設トイレ以上、多目的トイレ以下ほどの小屋の狭さからか──大和田はポンプ小屋の微妙に非人間的なスケールが気になったと述べている(*8)──発泡音はいままででもっともはっきりと聞き取ることができた。鑑賞者の体は室内から締め出されスピーカーとのあいだに空隙が挟まれるが、今度はそれによって、音がその周囲にいる者に誰彼構わず聞かせられるものになっている。付近にそれが展示作品であることを示す看板等はなく、通りがかった者が音や小屋に気づいたとしても、それが何の音であり小屋の中の物がなんなのか見当もつかなかっただろう。音と発音体の分離はスケールを変えて反復され、鑑賞者と通行人の区別が滞在の量的な勾配に変換される。
気圧の勾配に壁が耐えられなくなることで起こる発泡に音のミニマルな構成要素を見て取るというそれ自体は非常にシンプルなアイデアは、《Unearth》の度重なる再制作を通して、一方では耳の中の破裂音という身体的な次元に、他方では交通や運搬に関わる社会的な次元に展開されている(本展では美術館付近のインド料理店やタイ料理店を紹介する大和田が手書きでつくったと思しきマップが配布される。「パミール・レストラン」に行くと私と連れ以外の客はみんな移民で、メニューに日本語も英語もないその店は「現地」が栃木に移設され半開きになったかのようだった)。
音の存在の必然性は、空間を出発点と到着点を結ぶ均質な媒体ではなく、衝突を待ちつつ避ける無数の遅延に満たされた空間にする。冒頭に引いたエッセイは「能動的であるような聴取と受動的な待機が重なり合う、この局所麻酔のような時間についてこそ考える必要があると思われる」という言葉で閉じられる。キャンセルされたのとは別の新たな痛みとともに回帰する日常を待つような多層的かつ弾性的な時間のなかで、泡の形成と破裂が様々なスケールで繰り返され、そこに巻き込まれた身体にとってはあらゆる移動が多動的に引き裂かれたものになる。耳のための移動は眼のためにならず、食べるための移動が日本語をキャンセルする。質的な複数性を折り込まれた勾配の移り行きのなかで空間それ自体が未然の泡となり、「ひろがり」はまだ泡でないものとして定義される。
*1──大和田俊「歯科治療をへて」、『新・方法』第63号、2018年、http://7x7whitebell.net/new-method/bulletin/b063_j.html (最終アクセス2021年3月4日)。
*2──ジル・ドゥルーズは諸感官の協働を無批判に前提する「共通感覚sens commun」を批判し、その手前にある「逆−感覚para-sens」における感官ないし知的、身体的諸能力の発散を論じた。彼の『差異と反復』(財津理訳、河出文庫、2007年、第3章)および『シネマ2*時間イメージ』(宇野邦一他訳、法政大学出版局、2006年、第9章)を参照。
*3──本作品の具体性を裏切る概説的な言葉──それは必要ではあるにしても──が「名目的定義」にあたるとすれば、本稿が試みるのは「実在的定義」だと言えるだろう。ドゥルーズはこの区別の例として、円を「中心と呼ばれる同一の点から等しい距離に置かれた点の場所」として定義することを名目的定義、「その一端が固定し、他端が動く直線によって描かれる直線」として定義することを実在的定義としている(cf. 『スピノザと表現の問題』工藤喜作他訳、法政大学出版局、2014年、12頁)。つまり名目的定義がすでに与えられたものの構成要素への展開=説明だとすれば、実在的定義は定義される当のものを与える運動の追跡=再構成である。
*4──本展カタログ(大和田俊・中尾英恵・百頭たけし編集、大和田俊展実行委員会・小山市立車屋美術館発行、2021年)に収録された大和田によるステートメント参照。
*5──以上のコンテナ革命の説明については、北川眞也・原口剛「ロジスティクスによる空間の生産」(『思想』2021年2月号、第1162号、岩波書店、78-99頁)を参照した。
*6──「冷凍コンテナの39人死亡で、ベトナム人4人に実刑判決」、BBC NEWS JAPAN、2020年9月7日、https://www.bbc.com/japanese/54186234 (最終アクセス2021年3月4日)。イタリアの建築家Carlo Rattiはコロナ禍を受けてコンテナを改造し集中治療室にする《Cura》というオープンソースのプロジェクトを立ち上げている(https://carloratti.com/project/cura/、最終アクセス2021年3月4日)。
*7──ロジスティクス空間における摩擦を扱った代表的な作品として、ワリード・ベシュティの《FedEx》を挙げることができるだろう。「あいちトリエンナーレ2019」にも出展された本作では、FedExの段ボールにその内壁にぴったり沿うサイズのガラスの箱を入れ美術館に送り、運搬により劣化した段ボールの上にヒビの入ったガラスの箱を載せて展示する。
*8──前掲のカタログに収録された本展キュレーターの中尾英恵による作品解説を参照。