営みのパーティーで親密さを確かめる
世界中がウイルスに翻弄された2020年も(やっと)終わろうという師走のある日、銀座の華やいだブティックの地下で開かれているという「秘密のダンスパーティー」に、仮面ならぬマスクをして参加した。
会期最終日のその日、展示室の中央に鎮座する巨大な噴水は、1ヶ月前に展示がオープンしたときとはまったく違う、色鮮やかな液体を吸い上げていた。噴水をかたちづくる数百本のチューブに通う赤黒い液体は、循環の過程で赤の色素が先に沈み、黄色や黄緑色の液体に変化したという。噴水を囲む四方の壁には、異なるスピードでピストン運動を続ける機械仕掛けの金属棒。その動きは来場者を踊りに誘う優雅なステップ……というよりも、中央の噴水に奉仕するためにせっせと働く働き蜂のよう……。
「あ、真ん中にあるのが雌しべっス! んで、周りのは雄しべ的な」と、作家がいつも通りの舌足らずな口調で《静かなダンス》を指差した。ヨーロッパでは古くから権力や富の象徴として、しばしば男根的なイメージとも結びつけられてきた公共彫刻としての噴水は、藤田のつくるダンスホールではあっさりとランの花(を抽象化したもの)にすげ替えられていた。ラブホテルにあるソファのような素材で覆われた八角形の台座や、噴水の上を軽率に舞う半透明の花片は、高天井の空間のなかであわよくば成立しかける荘厳な雰囲気を、絶妙なバランスで破綻させている。その周りで男性器を連想させる金色の棒が雄しべと呼ばれながら健気にピストンを繰り返しているのだから、なんだか可笑しくなってしまった。営まれているのは、快楽のステップか労働の反復か。1ヶ月のあいだに艶(あで)やかな生気を宿した中央の花(雌しべ)が、思わせぶりに微笑んでいるような気がした。
奥の展示室に進むと、キネティックなオブジェがもうひとつ、体液を思わせる液体に生を吹き込んでいた。デュシャンの《自転車の車輪》を連想したのは「泉」を見た直後だからか? 上部にある車輪のようなものが回転すると、その下の大きな金属棒がピストン運動を開始し、粘着性の強い液体の入ったガラス容器にその先端をゆっくりと挿し入れる。ガラス容器はそれ自体が液体であるかのような有機的な形をして石の上に座り、木の脚がそれを支えている。内と外がもっとも近いところで接触する場としての生殖行為を象徴しているというこの作品《Never the Same》は、機械仕掛けの部分が男性、有機的な素材でできた部分が女性を表すそうだが、機械部分に優美な曲線を持つ円形のハンドルが使われていたり、石や木の脚はどっしりとしたつくりになっていたりと、人間社会で期待される性的役割を表象するような表現はあまり見られない。
思えば藤田の作品には、多層的な解釈を可能にするヒントがいくつも仕掛けられているにもかかわらず、社会的な問題意識の高さやポリティカル・コレクトネスへの配慮を目配せ的に示す要素はない。しかしそれは、彼女の作品が社会と断絶しているのではなく、あらゆるものに接続しているからだ。「ふとうめいな繋がり」の模索は人間社会にとどまらず、自然、植物、動物、機械、宇宙などを自由に結びつけながら、「生殖器」「受精・受粉」「自然と人間」「機械と生命」といった要素を、含みも淀みもなく表現するので、例えばそれをフェミニズム的視点で価値付けしたり、環境問題に紐付けて語ったりすることすら、野暮に思えてくる。普通なら扱うのをためらうほど純粋で普遍的な美の指標のひとつである「黄金比」を、巻貝の計測を通じて可視化しようとする作品群も、時間や種族を超えた繋がりや世界と自分との距離を見出そうという彼女の愚直な探求にとっては、至極真っ当な選択なのだろう。
ところで、昨今の人権侵害や差別にまつわる意識の高まりを受けて、「気をつけなければいけないことが増えた」と窮屈に思っている人はじつのところ多いのではないか。これから創作活動を始めようという若い世代には、そういった社会的気運に迎合する作品しか評価されないのかと、不安に思う人もいるかもしれない。しかしいままさに私たちは、価値観の書き換わる過渡期にいる。ジェンダーバランスに配慮した表現や特定の人を排除しない言説の立て方は、いまでこそ新しい視点を提示するものとして特別な価値を置かれているが、近い将来それは当然のこととなり、作品の評価軸もそれらを前提としたものに更新されるだろう(そうならないと困る)。
そう思うと、社会の諸問題に極めて自覚的でありながらも、それだけに依拠しない新たな繋がりを提案する藤田の作品は、公正平等な社会の追求と自由闊達な表現が牽制し合うことなく両立する、来るべき時代の芸術作品のあり方を提案しているのだと言える。もしくは不確かな関係性のなかで模索を続ける彼女の作品自体が、「海外生活の長い」「日本人離れした感覚」といった作家自身に付きまとう装飾をひとつずつ剥ぎ取り、生身の藤田クレアとして世界と繋がれる時代を、自らの力で引き寄せようとしているのかもしれない。
次回開催されるダンスパーティーには、ぜひマスクを外して参加したいものだ。