知としての光
親は大げさな名前を付けた。戸籍にある正式な読みは「ノリミツ」となっていて「この世紀のひかり」というつもりで付けたと思います。 ──トム・ギル『毎日あほうだんす : 寿町の日雇い哲学者 西川紀光の世界』(キョートット出版、2013)
無名の哲学者、西川紀光。社会人類学者トム・ギルが横浜の寿町を調査するなかで出会った西川は日雇い労働をしながら図書館に通い、哲学書が積み上がる簡易宿泊所で暮らしている。中沢新一を尊敬し、酩酊のなか、英語と日本語を交えながら世界各地の膨大な知をつなぐ。人生を自然科学の隠喩で話し、神を信じ、チベットの僧は厳しい修行の末、自ら発光するのだと語る。
率直に、奇妙なトリエンナーレであると思う。様々な言語で話し、とっ散らかっていて、会話の途中で何かアイデアを閃くと話題を変え、例えで話したと思えば、すぐに議論の次元を変えてしまうというような……。本稿では、そのキュラトリアルな手つきについて考えてみたい(*1)。
アーティスティック・ディレクターのラクス・メディア・コレクティヴ(以下、ラクス)の3人は大学で出会い、1992年にドキュメンタリー制作からキャリアをスタートさせた。2000年にインド、ニューデリーに都市都市文化を研究するシンクタンク「サライ」を共同設立し、現在まで同地を拠点に活動している。2002年にはドクメンタ11に参加。初のアフリカ出身者として芸術監督を務めたオクウィ・エンヴェゾーは「グローバリゼーション」、「文化多元主義」、そして「『ポスト植民地主義』の時代の芸術―脱領域化された文化理解」をテーマに、ニューデリーを含む世界各地でシンポジウム、レクチャー、朗読などのイベントを行った。議論のプラットフォームを芸術祭とし、カッセルでの展覧会をあくまでそのひとつとして位置づけた画期的な試みは広く知られている。ラクスは以降も近代化の残余や非西洋圏におけるトランスナショナルな「知」のあり方を探求してきた(*2)。
ラクスは「ヨコハマトリエンナーレ2020 AFTERGLOW―光の破片をつかまえる」のために、西川紀光についての文章をはじめとする5つの資料をソースとして用意した(すべて『ソースブック』として読むことができる*3)。参加アーティストはそれをもとに新作を制作し、既存作品もソースへの関心から選ばれているように見える。また会期中には「エピソード」と呼ばれるイベントが断続的に行われる(現在、ヨハネスブルクで開催。再調整となっているようだが香港、ニューデリーでも開催が予定されている)。
揺らめくモアレ(イヴァナ・フランケ《予期せぬ共鳴》)で覆われた横浜美術館では直接的に「光」を扱う作品、世界各地の「知」を扱う作品が展示されている。エレベーターを上がるとすぐ目に入るのは、1903年にエンジニア・発明家のジェイムス・ナスミスが発表した著作『ザ・ムーン:惑星、世界、衛星としての月』の挿図である。当時望遠鏡が発達しておらず観測した月の表面を直接写真に収めることができなかったため、ナスミスは自然現象に関する科学的な知見をもとに月の部分模型をつくり、その姿をカメラに収めた。また参照項として深く皺の刻まれた手の写真が挿入されていて、キャプションのテキストは図像によって老いというメタファーが与えられていることを指摘する。このように本トリエンナーレにおいて「光」と「知」は重なり合い、科学と文学は交差する。
「光」は肯定的に扱われるだけではない。ソースブックの「太陽から放たれる放射能から身を守るために毒を放つサンゴ」というエピソードを経由して、その有害さ、また「毒」という主題が扱われる。広がる大地を切り開くようにつくられたいくつもの放射性廃棄物貯蔵管理施設を上空から撮影したローザ・バルバ《地球に身を傾ける》。原子力発電と仏教神話を重ね合わせながら、放射能に汚染された世界を舞台にした黙示録的なサイエンス・フィクションを展開するパク・チャンキョン《遅れてきた菩薩》。その美しさからヨーロッパに輸入され、人気を博したが、人間の皮膚に害を及ぼすため現在では忌み嫌われている観葉植物(インゲラ・イルマン《ジャイアント・ホグウィード》)。こうした作品が各所で見ることができる。
ソースに含まれるスヴェトラーナ・ボイムの友愛についての哲学や、16世紀に南インドのピージャーブル王国で編纂された占星術百科事典を経由して、他者へのケア、身体知をめぐる視点も導入される。イルマンの作品を取り囲むインティ・ゲレロのエピソード4「熱帯と銀河のための研究所」では、横浜美術館のコレクションを再構成し、フェミニズム的観点を通して、大日本帝国とアメリカ合衆国によるミクロネシア地域統治の歴史が暴かれる。
もともとアミューズメントパークだった建物を使い、幼児のための色とりどりの壁や床を転用したプロット48では、思考が妄想的にドライブする。電気によって生物のように成長する彫刻(イシャム・ベラダ《質量と殉教者》)、青年とシダ、ハチと蘭、人とタコなど種を超えた性交を扱うジェン・ボー《シダ性愛》。実験室のエビを欲情させるための妄想的なアイデアを集める参加型のエレナ・ノックス《ヴォルカナ・ブレインストーム(ホットラーバ・バージョン)》、不死を目指すロシア宇宙主義思想(アントン・ヴィドクル《これが宇宙である》《宇宙市民》)など、妄想と科学、宇宙と大地は交雑する。
ラクスはこうした試みに「茂み」という言葉を充てているが、確かにその様子は雑草が自由に生い茂る庭のようであり、思いつきで無計画に増築を重ねた建築物のようである。ソースが次のソースを呼び込み、ある作品の解釈は連想を生み出し、別のプロジェクトが接ぎ木される。全体の行く先はコントロールされておらず、まったくの無秩序であるようにも見える。
しかしこのトリエンナーレの(あるいは解説の代わりにおかれたテキストの)多弁で無秩序な語り口が、あるものに全力で抗するために組織されていることに気づかなければならない。
それは「啓蒙」である。本展において西洋中心主義や植民地主義は徹底して批判されている。当然、非西洋圏に出自を持つアーティストが積極的に招聘されているが、それだけではない。西洋人が非西洋圏の人々に知識の体系を与え、支配下に置く「啓蒙」のモデル自体が批判の対象となっている。この倫理は徹底しており、観客に一方的に与える「解説」は退かれている。また「啓蒙」と「光を照らす」ことを意味する英語(illuminate)は同一であり、ゆえに批判されるべき「照らすこと/照らされること」という非対称的な関係に対して「光の断片をつかまえる」「自ら発光する」ことが肯定されている。
自ら知の断片をつなぎ合わせ思考する西川紀光は、啓蒙に抗する実践例として召喚されている。あるいは西洋から与えられた体系によらない、無秩序な占星術(反)百科事典が導入される。スヴェトラーナ・ボイムの友愛についての哲学は、啓蒙するもの/されるものという非対称性を超えた関係を築くために導入されている。「友情とは、すべてを明瞭あるいは不明瞭にすることではなく、影と共謀し、戯れることなのである。その目的は啓蒙ではなく光輝であり、盲目的な真実を探求することではなく、不意に出会う明瞭さと誠実さを探求することである」(*4)。
清々しいほどに奔放な、知への信念に貫かれたトリエンナーレだ。ステイトメントで示されるように本トリエンナーレが「次のトリエンナーレまでの1000日」を想定したものであるならば、まだつくられたばかりのこの足場が(世界的な感染症の渦中にあっても)徹底的に使われることを期待したい。光に照ら(啓蒙)されなくても、世界は断片的な光(知)に満ちている。わたしたちは友人たちと協力し、光(知)をつなぎ合わせ自ら発光する(学ぶ)ことができる。
*1──国際展における複雑化したキュレーションについては長谷川新との下記議論が念頭にある。長谷川新+飯岡陸「不純物は歴史の地層を巡る──展覧会『不純物と免疫』についてのダイアグラムと短い対話」2018年:turtle-c.com/text/impurityimmunity.html
*2──ラクス・メディア・コレクティヴのこれまでの活動についてインターネット上で概観できるものとして以下がある。
Hg Masters "Talking Cure: Raqs Media Collective," Art Asia Pacific, July/August 2019:artasiapacific.com/Magazine/64/TalkingCureRaqsMediaCollective
黒岩朋子「コロナ禍とともに歩むアート──ヨコハマトリエンナーレ2020『AFTERGLOW─光の破片をつかまえる』」『アートスケープ』2020年6月15日:
artscape.jp/focus/10162837_1635.htm
また以下の書籍を参照した。Raqs Media Collective: Casebook, Art Gallery of York University, 2014
*3──ラクス・メディア・コレクティヴ編『AFTERGLOW─光の破片をつかまえる ヨコハマトリエンナーレ2020 ソースブック』横浜トリエンナーレ組織委員会、2019年 PDF版が以下よりダウンロードできる:www.yokohamatriennale.jp/2020/concept/sources
*4──前掲書、p.46